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初めは公共交通として[[鉄道省]]や自治体に建設を働きかけたものの、早川の先見性は全く信用されなかった。東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということに技術的、資金的に無理だと判断されたことや、事業として成り立つが不透明であったことが要因だった。仕方なく私営で建設を決意しあちこちに働きかけたが、同様に信用はほとんど得られなかった(数少ない理解者に[[後藤新平]]や[[渋沢栄一]]がいる)。
 
初めは公共交通として[[鉄道省]]や自治体に建設を働きかけたものの、早川の先見性は全く信用されなかった。東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということに技術的、資金的に無理だと判断されたことや、事業として成り立つが不透明であったことが要因だった。仕方なく私営で建設を決意しあちこちに働きかけたが、同様に信用はほとんど得られなかった(数少ない理解者に[[後藤新平]]や[[渋沢栄一]]がいる)。
  
橋の建設で使われた地層図を取得し、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないこと、豆を使った交通量調査を行い、その結果から事業として十分成り立つことなどを説得材料に、苦労を重ね少しずつ賛同者を募り[[投資家]]や[[金融機関]]への粘り強い説得で遂に独力で[[1920年]](大正9年)[[8月29日]]に'''東京地下鉄道株式会社'''を設立し、[[1925年]](大正14年)[[9月27日]]に浅草~上野の地下鉄工事を始める。設立後も株主総会が紛糾して解散の危機が迫ったり、建設工事も難工事の連続で何度も事故が起きたりするなど数々の困難を乗り越え、[[1927年]](昭和2年)[[12月30日]]に[[浅草駅]]から[[上野駅]]まで開業させた。現在の[[東京地下鉄銀座線]]の同区間である。
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橋の建設で使われた地層図を取得し、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないこと、豆を使った交通量調査を行い、その結果から事業として十分成り立つことなどを説得材料に、苦労を重ね少しずつ賛同者を募り[[投資家]]や[[金融機関]]への粘り強い説得で遂に[[1919年]](大正8年)[[11月17日]]に地下鉄建設を許可する免許状が交付され(この時は「東京軽便地下鉄道」という会社名だった)、独力で翌[[1920年]](大正9年)[[8月29日]]に'''[[東京地下鉄道]]'''を設立し、[[1925年]](大正14年)[[9月27日]]に浅草~上野の地下鉄工事を始める。設立後も株主総会が紛糾して解散の危機が迫ったり、建設工事も難工事の連続で何度も事故が起きたりするなど数々の困難を乗り越え、[[1927年]](昭和2年)[[12月30日]]に[[浅草駅]]から[[上野駅]]まで開業させた。現在の[[東京地下鉄銀座線]]の同区間である。
  
 
ようやく開通した浅草駅~上野駅間につづき、順次路線延長を進めていく。資金繰りが決して順調に行かない時でも安全を第一に考え、全鋼・[[地下鉄対応車両|難燃化車輌]]の導入、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]]の導入を行い、さらに将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、社員の教育の充実など積極的に推進した。
 
ようやく開通した浅草駅~上野駅間につづき、順次路線延長を進めていく。資金繰りが決して順調に行かない時でも安全を第一に考え、全鋼・[[地下鉄対応車両|難燃化車輌]]の導入、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、[[自動列車停止装置#打子式ATS|打子式ATS]]の導入を行い、さらに将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、社員の教育の充実など積極的に推進した。
  
一方で、小林一三率いる[[阪神急行電鉄]]を手本に出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置して収入を増やしたり、[[定期乗車券|定期券]]利用の通勤客向けに[[新聞]]の[[朝刊]]を駅入場時に受け取れるサービスを発案したり、デパートの直近にルートを取り、駅とデパートを直接出入りできるように建設する代わりにそのデパートから建設費用を出してもらうようにするなど、営業・経理面でも様々な方面で手腕を発揮した。
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一方で[[小林一三]]率いる[[阪神急行電鉄]]を手本に出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置して収入を増やしたり、[[定期乗車券|定期券]]利用の通勤客向けに[[新聞]]の[[朝刊]]を駅入場時に受け取れるサービスを発案したり、デパートの直近にルートを取り、駅とデパートを直接出入りできるように建設する代わりにそのデパートから建設費用を出してもらうようにするなど、営業・経理面でも様々な方面で手腕を発揮した。
  
 
さらに郊外へ伸びる他の鉄道線への乗り入れも視野に入れたりする(新橋から現在の[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]のルートで[[品川駅|品川]]へ至り、[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]への乗り入れをする考えを持っていた)など、随所に先見性の高さを見せていた。その後、東京地下鉄道は[[新橋駅]]まで延伸した。
 
さらに郊外へ伸びる他の鉄道線への乗り入れも視野に入れたりする(新橋から現在の[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]のルートで[[品川駅|品川]]へ至り、[[京浜急行電鉄|京浜電気鉄道]]への乗り入れをする考えを持っていた)など、随所に先見性の高さを見せていた。その後、東京地下鉄道は[[新橋駅]]まで延伸した。
  
 
=== 営団の設立と経営からの引退 ===
 
=== 営団の設立と経営からの引退 ===
しかし[[1940年]](昭和15年)12月に[[五島慶太]]率いる[[東京高速鉄道]](銀座線[[渋谷駅]]~新橋駅間建設)との経営権の争いが勃発、当時の[[鉄道省]]の思惑(地下鉄の国営化を目論んでいた)も絡み、東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として早川の引退が含まれ、両社の事業は新設された[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に譲渡されることとなり、地下鉄事業を取り上げられる形で実業界から去ることととなった。
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しかしに[[五島慶太]]率いる[[東京高速鉄道]](銀座線[[渋谷駅]]~新橋駅間建設)との経営権の争いが勃発、そのことがあだとなり、[[1940年]](昭和15年)3月、当時の[[鉄道省]]が[[調停]]という名目で介入(鉄道省は思惑として地下鉄の国営化を目論んでいた)、6月には東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として徳次の引退が含まれた調停案が提示され、12月、徳次は事業の一切から身を引いた。両社の事業は新設された[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に[[1941年]](昭和16年)[[7月4日]]をもって譲渡されることとなり、地下鉄事業を取り上げられる形で実業界から去ることととなった。
  
 
その後、故郷の山梨へ帰り、失意のままこの世を去る。享年61。
 
その後、故郷の山梨へ帰り、失意のままこの世を去る。享年61。
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2008年1月24日 (木) 21:14時点における版

ファイル:Ginza N H.jpg
早川徳次の胸像(2004年11月7日)

早川 徳次はやかわ のりつぐ1881年明治14年)10月15日 - 1942年昭和17年)11月29日)は東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団東京地下鉄)の創業者である。

略歴

地下鉄に出逢うまで

山梨県東八代郡一宮町(現在の笛吹市)出身。旧制甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て早稲田大学卒業後、鉄道院に勤務。東武鉄道の創業者・根津嘉一郎に見出され、彼の右腕となる。

早川が鉄道と本格的に関わるようになるのは郷里の先輩である根津に見出されてからである。根津が株を取得していた高野登山鉄道(南海高野線の前身)は当時は沿線開発が進んでおらず予想より輸送量が低迷したことや高コスト体質が災いし、赤字経営が続いていた。

そこで根津は早川の腕を見込んで同社の立て直しするよう依頼し赴任することとなった。同社を皮切りに根津の右腕として辣腕を振るっていた。

1914年大正3年)に国際事情視察の為、欧州を訪問。そこでロンドンにおいて地下鉄が発達しているのを目の当たりにし、またグラスゴーではゆとりを持った乗車が実際に行われているのに衝撃を受け、これからは東京にも地下鉄が必要だと考えるようになる。

地下鉄建設と開業

初めは公共交通として鉄道省や自治体に建設を働きかけたものの、早川の先見性は全く信用されなかった。東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということに技術的、資金的に無理だと判断されたことや、事業として成り立つが不透明であったことが要因だった。仕方なく私営で建設を決意しあちこちに働きかけたが、同様に信用はほとんど得られなかった(数少ない理解者に後藤新平渋沢栄一がいる)。

橋の建設で使われた地層図を取得し、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないこと、豆を使った交通量調査を行い、その結果から事業として十分成り立つことなどを説得材料に、苦労を重ね少しずつ賛同者を募り投資家金融機関への粘り強い説得で遂に1919年(大正8年)11月17日に地下鉄建設を許可する免許状が交付され(この時は「東京軽便地下鉄道」という会社名だった)、独力で翌1920年(大正9年)8月29日東京地下鉄道を設立し、1925年(大正14年)9月27日に浅草~上野の地下鉄工事を始める。設立後も株主総会が紛糾して解散の危機が迫ったり、建設工事も難工事の連続で何度も事故が起きたりするなど数々の困難を乗り越え、1927年(昭和2年)12月30日浅草駅から上野駅まで開業させた。現在の東京地下鉄銀座線の同区間である。

ようやく開通した浅草駅~上野駅間につづき、順次路線延長を進めていく。資金繰りが決して順調に行かない時でも安全を第一に考え、全鋼・難燃化車輌の導入、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、打子式ATSの導入を行い、さらに将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、社員の教育の充実など積極的に推進した。

一方で小林一三率いる阪神急行電鉄を手本に出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置して収入を増やしたり、定期券利用の通勤客向けに新聞朝刊を駅入場時に受け取れるサービスを発案したり、デパートの直近にルートを取り、駅とデパートを直接出入りできるように建設する代わりにそのデパートから建設費用を出してもらうようにするなど、営業・経理面でも様々な方面で手腕を発揮した。

さらに郊外へ伸びる他の鉄道線への乗り入れも視野に入れたりする(新橋から現在の都営浅草線のルートで品川へ至り、京浜電気鉄道への乗り入れをする考えを持っていた)など、随所に先見性の高さを見せていた。その後、東京地下鉄道は新橋駅まで延伸した。

営団の設立と経営からの引退

しかしに五島慶太率いる東京高速鉄道(銀座線渋谷駅~新橋駅間建設)との経営権の争いが勃発、そのことがあだとなり、1940年(昭和15年)3月、当時の鉄道省調停という名目で介入(鉄道省は思惑として地下鉄の国営化を目論んでいた)、6月には東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として徳次の引退が含まれた調停案が提示され、12月、徳次は事業の一切から身を引いた。両社の事業は新設された帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に1941年(昭和16年)7月4日をもって譲渡されることとなり、地下鉄事業を取り上げられる形で実業界から去ることととなった。

その後、故郷の山梨へ帰り、失意のままこの世を去る。享年61。

その後

銀座駅日比谷線中2階メトロプロムナードの中央部に早川の胸像がある。同じ胸像が地下鉄博物館にもある。

早川徳次は自分の娘に「いつかきっと、東京中が魚の網のように地下鉄で張り巡らされる日が来るだろう」と言っていたという。早川のその言葉は現在、現実のものとなっている。

帝都物語

帝都物語』の映画版には早川徳次(出演:宍戸錠)が登場、「地下鉄の建設中、トンネルの中に鬼が出現する為、學天則(ロボット)で駆除して欲しい」と申し出をするシーンがある。ストーリー自体は基本的世界観を除けばフィクションであるが、豆を使って乗客流動調査をする実話も再現されているほか、エンディングは開業した地下鉄を早川が案内するシーンとなっており、地下鉄博物館で撮影が行われた。

外部リンク


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