平盛子

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平 盛子(たいら の もりこ/せいし、保元元年(1156年)- 治承3年6月17日1179年7月23日))は、平清盛の3女、摂政近衛基実正室北政所)。母親は不詳。近衛基通養母。後に高倉天皇准母として准三宮に叙せられ、白河殿・白河准后と号する。

人物

長寛2年(1164年)にわずか9歳で近衛基実に嫁ぐが、2年後に基実が24歳の若さで急死する。基実には既に藤原信頼の妹との間に7歳の基通がいたが、未だに叙位を受けておらず、摂関家を継承することは不可能であった。そこで11歳の盛子が7歳の基通の養母となって、基実成人までの間は盛子が一時的に摂関家領を相続して、盛子の実父である平清盛がその実質管理を行うことになった。これによって基実の後を次いで摂政・藤氏長者となった松殿基房にはわずかな所領の継承しか許さなかった。この事については清盛の側近藤原邦綱の策動があったとされ、あたかも日本屈指の荘園を有する摂関家が平氏に押領された「日本史上最大の押領事件」と解説する専門書も多い。だが、将来的には基通が摂関家嫡流の地位を継承することは規定路線であり、その成人までの「中継ぎ」に過ぎない基房に摂関家領を継承させた場合、将来の摂関家の分裂を招く危険性が高かった。更に盛子の相続には後白河法皇院宣によって許可を出しており、当時日の出の勢いの平氏一門が基通の外戚代わりになることで将来の摂関継承を円滑に進める方針上に行われ、将来的には基通が継承することが前提であったとされている(実際に治承三年の政変によって基通が関白に任じられると摂関家領は基通に継承されている)。

その後、基実及びその1つ年下の憲仁親王(後白河法皇皇子)を養育した。仁安2年(1167年)に基実の未亡人として従三位に叙せられる。その翌年に憲仁親王が即位して高倉天皇として即位すると、准三宮に叙せられた。また、の名手としても知られていた。基実の弟九条兼実日記玉葉』によると、承安3年(1173年)に後白河法皇の仲介で松殿基房と盛子を婚姻させて、基房を基通の養父にする計画が持ち上がるが、基房には既に1度北政所を入れ替えた経緯があり、更に盛子を入れることは彼女の将来を不安定にしかねないものであった。当然、清盛はこれに反対して計画を潰してしまった。これは摂関家を基通に継承させるという既定の方針を破棄して、松殿基房に摂関家を継承させる方針に後白河法皇が変更したと解され、後白河法皇と平清盛の確執の原因の1つとなった。法皇は摂関家を基通が継ごうが基房が継ごうが摂関家嫡流が維持されれば差し支えないと考えていたようであるが、既に盛子の異母妹である平完子を基通の北政所として基通の摂関家継承による平氏と摂関家の連携に平氏政権の将来を賭けていた清盛にとっては法皇の背信行為と受け取られた。

基通の養育の傍らで実質上の摂関家の長として氏族内部の行事の遂行などを円滑にこなして、基通の政治的地位の確立に尽力したがその活動は年若い彼女にとっては重荷となったためか治承年間に入ると病気がちとなり、奇しくも夫と同じ24歳の若さで急逝した。九条兼実は『玉葉』において、世間では「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」と噂をしているが、これは誤解であるとして、盛子は「宗たる文書・庄園、伝領せらるべき仁」である基通が成人するまでの「仮の伝領の人」であったもので、摂関家としてはやむを得ない措置であったことで春日大明神もこれを否定していないとして噂を批判している(これはその後の基房による高倉天皇への摂関家領の相続を決めたことを春日大明神を軽んじた計略であるとする痛烈な批判と対となるものである)。

盛子の死去時に父の平清盛は厳島神社参拝中で京都を留守にしていた。ところが、その3日後に後白河法皇と松殿基房は清盛の不在中にも関わらず、盛子が遺した摂関家領を「養子」である高倉天皇に相続させることとして、事実上これを没収した。17歳で既に従二位となっていた基通に継承させなかったのは将来摂関家領を基房に継承させて基通の摂関家継承を阻止するものと捉えられた。このことが清盛に対して基通を摂関家の当主につけるための対抗措置の必要をせまられることになり、治承三年の政変へのつながることになる。

参考文献

  • 芳賀登 『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993年) ISBN 978-4-8205-7128-5
  • 田中文英「平盛子」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8
  • 朧谷寿「平盛子」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-040-31700-7
  • 飯田悠紀子「平盛子」(『日本古代中世人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01434-2
  • 河内祥輔「治承元年事件および治承三年政変について」(所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 978-4-642-02863-9

関連項目