「大場政夫」の版間の差分

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(エピソード: 大場綜って誰?)
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*大場政夫は身長168㎝ リーチ170㎝と当時のフライ級では破格の体格を生かしたスピーディーでスタイリッシュなアウトボクサーだったが、その体格ゆえ常に減量苦を強いられていた。しかし強靭な精神力で試合の度に減量苦を乗り越え続けていた。
 
*大場政夫は身長168㎝ リーチ170㎝と当時のフライ級では破格の体格を生かしたスピーディーでスタイリッシュなアウトボクサーだったが、その体格ゆえ常に減量苦を強いられていた。しかし強靭な精神力で試合の度に減量苦を乗り越え続けていた。
 
*チャチャイ・チオノイ後、大場の減量が苦しくなって来たのを知っていた[[帝拳ジム]]関係者は、チャチャイ戦の後、大場の次戦の予定を組まず、暫く休養させることとし、時期を見計らって大場が保持していた[[世界ボクシング協会|WBA]][[世界]][[フライ級]]王座を返上した後、[[バンタム級]]に転向させて、[[ファイティング原田]]に次ぐ当時としては史上二人目となるはずの二階級制覇を狙って当時の[[世界ボクシング協会|WBA]][[世界]][[バンタム級]][[チャンピオン]]:[[ルーベン・オリバレス]]({{MEX}})に挑戦させることを検討し始めていたという(尚、当時のボクシング界には現在のように[[スーパーフライ級]]というクラスは存在していなかった)。
 
*チャチャイ・チオノイ後、大場の減量が苦しくなって来たのを知っていた[[帝拳ジム]]関係者は、チャチャイ戦の後、大場の次戦の予定を組まず、暫く休養させることとし、時期を見計らって大場が保持していた[[世界ボクシング協会|WBA]][[世界]][[フライ級]]王座を返上した後、[[バンタム級]]に転向させて、[[ファイティング原田]]に次ぐ当時としては史上二人目となるはずの二階級制覇を狙って当時の[[世界ボクシング協会|WBA]][[世界]][[バンタム級]][[チャンピオン]]:[[ルーベン・オリバレス]]({{MEX}})に挑戦させることを検討し始めていたという(尚、当時のボクシング界には現在のように[[スーパーフライ級]]というクラスは存在していなかった)。
*[[島田紳助]]も少年時代、大場に熱烈に憧れボクシング習っていた。
+
*[[島田紳助]]や[[大場綜]]も少年時代、政夫に熱烈に憧れボクサーを志望した。
 
*『[[西田ひかるの痛快人間伝 -Dashing life story-]]』([[1992年]][[4月2日]][[放送|放映]] [[NHK総合テレビジョン]])や、[[日本テレビ放送網]]の『[[知ってるつもり]]』([[1998年]][[3月1日]]放映)でも大場の生涯が取り上げられた。
 
*『[[西田ひかるの痛快人間伝 -Dashing life story-]]』([[1992年]][[4月2日]][[放送|放映]] [[NHK総合テレビジョン]])や、[[日本テレビ放送網]]の『[[知ってるつもり]]』([[1998年]][[3月1日]]放映)でも大場の生涯が取り上げられた。
  

2009年1月27日 (火) 20:58時点における版

大場 政夫(おおば まさお、1949年10月21日 - 1973年1月25日)は、東京都墨田区出身の日本プロボクサーで、WBA世界フライ級王座を連続5度防衛。現役世界王者のまま不慮の事故死を遂げたため「永遠のチャンプ」と称される。右ボクサータイプ。

来歴

ラストファイト

1973年1月2日日大講堂で行われた5度目の防衛戦の相手は「稲妻小僧」の異名を持つベテラン、チャチャイ・チオノイ(タイ)。初回、いきなりの右ロング・フックをまともに受け大場はダウン。この時大場は右足首を捻挫、以降ラウンド間に氷で冷やしつつ、足を引きずりながらも打ち合いに応じていった。

大場は、強気のボクシングで試合中盤から形勢を逆転し、ついに最終12回、チャチャイから1度目のダウンを奪う。タイの老雄はレフェリーに促されるように立ち上がるが、鬼気迫る表情の大場の連打に晒され2度、3度とダウン。大場は逆転ノックアウト勝利を収めた。

悲劇の最期

チャチャイ・チオノイ戦から3週間が経過した1973年1月25日、大場は帝拳ジムへ向かうべく愛車シボレー・コルベットを運転していた。そして新宿区新小川町3丁目の首都高速道路大曲カーブ中央分離帯を乗り越え、対向車線から走ってきたトラックと衝突。この事故で現役世界王者のまま23歳というあまりにも短い生涯を終えた。

エピソード

戦績

  • プロボクシング:38戦35勝16KO2敗1分。

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外部リンク