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崔 吉竜さい きちりゅう1963年11月23日 - 2004年9月14日)は兵庫県伊丹市出身のテロリストで、元死刑囚

兵庫県伊丹市在日コリアンとして生まれた。両親は共働きの為、4歳の頃まで祖父母の家で養育されるが、その後父母の実家に帰っている。以後、小学校、中学校と通うが、父からは厳しく接せられ報道されるところによると、父と目を合わせることができなかったと言われ、時には、父親がスパナを持って追い回し、子供の被告人は母親の影に隠れる一面もあったという。被告人は、逮捕後父から長年虐待を受けて性格が歪んだかのような発言をしており、検察、弁護側もこれを否定しなかった。また崔は幼少の頃から異常行動を繰り返しており、国道三輪車で走って渋滞を引き起こしたりしている。

ただし、大阪教育大学付属池田中学校に進学することを母親に頑なに断られたことが原因となったのか、こうした環境や前途に悲観したこともあってか、崔は小学校卒業直前になってからうつ病を発症するようになり、それでいて徐々に自棄気味の行動が散見されるようになり、高校で教師に一回暴力事件を起こしたり、中学時から特に動物虐待を行ったり、という証言も見られ、こうしたことが災いしてか、17歳で高校を退学になってしまう。また現実からの逃亡を図り、家出をするなど厭世的な行動も目立っていた。なおその間16歳のときに崔は日本に帰化し宅間 守(たくま まもる)と改名している。

その後精神科にも通院するが、18歳で心機一転航空自衛隊に入隊し、浜松基地に配属されるが、19歳になる前後に家出した少女と寮で同棲したことにより、事情聴取を受け除隊(諭旨免職)処分になってしまう(ちなみに諭旨免職時のポストは空士長だった)。除隊後の1985年には日航機墜落事故の現場に暇つぶしの目的で現れている。

以後は、運送業をしたり、不動産会社に就職したり、と職を転々とした結果、28歳で伊丹市役所の非常勤職員となって、以後7年間勤務することになるが、家族との関係もうまくいかず、見つかるまで父に隠れて母親と同棲し、それが発覚すると父親とスコップでちゃんばらをするなど変わった生活もしており、また性格も一層すさみ、女性宅に侵入して強姦したり、後述の3番目の妻に対してストーカー行為をしたり、運転手に対して暴行するなど、児童殺害をするまでに少なくとも14回の逮捕をされている。結果、強姦事件では3年の実刑判決を受け、また父親からは勘当されてしまう。伊丹市職員となるのは刑期満了で出所してから1~2年後のことだった。

家庭面では、以後、4回の結婚を繰り返すが(うち最初の2回は自分より大幅に年上の45歳以上の中年の女性(うちひとりは小学校時代のクラスの担任)と、3回目は自分より2歳年上の女性と、4回目は3歳年下)、初回は結婚時の経歴詐称が原因で、2度目は逮捕が原因で、また3度目はその前後に養子縁組して解消した老女が乗り込んできて妻に彼の負の一面を洗いざらい話して、妻自身も「同じような経験がある」と同意したことが原因で、4度目はできちゃった婚で結婚したが素行が原因で長くは続かず、それぞれそのうち離婚している。その間1999年3月には兵庫県伊丹市立池尻小学校において、精神安定剤入りのお茶を同僚教師に飲ませる傷害事件を起こして逮捕されたが、精神病を理由に不起訴となった。

またそんな中、兄も弟からのいじめを苦にしたことはもとより、離婚したり事業が失敗したのが原因で自殺、2001年6月6日には自宅アパートに闇金融からの電話や滞納した家賃など諸々の取立てが来ており、その後父親に金を貸してくれと頼んだが冷たくあしらわれ、家庭的にも経済的にも全ての面で行き詰った彼は、小学校卒業直前以降四半世紀近く抱えていたうつ病の症状も相俟って「大量殺人をして死刑になろう」という絶望的で自暴自棄的な考えから、2日後の6月8日大阪府池田市大阪教育大学附属池田小学校に侵入、児童8人を殺害、児童13名・教諭2名に傷害を負わせる凶悪事件を起こし、殺人罪などで逮捕・起訴された。少なくとも崔は下関通り魔殺人事件模倣犯になりたかった、ということが第2回公判以降の証言で明らかとなっている。

その後、第2回公判以降の裁判では裁判長や遺族に対して暴言を吐くなど悪態をつくが、2003年8月29日大阪地方裁判所死刑判決を言い渡される。この際に裁判長や傍聴席の遺族に暴言を吐いて裁判長から退廷を命じられ、被告人不在の中で判決が言い渡される異常事態となった。しかも、主文は冒頭で言い渡された(死刑判決の際は主文は後回しになることが多い)。弁護側は後に本人の同意の無いまま控訴したが、9月26日、崔本人が取り下げて判決が確定。2004年9月14日、判決確定からわずか1年足らずで、大阪市都島区大阪拘置所にて死刑が執行された。なお、彼について世論の大勢は犯罪行為への非難が圧倒的だったが、凶行の動機を知らされた中には同情者もいて、そのうちの1人の死刑廃止運動家の中年女性と2003年12月に「5度目の」獄中結婚をし、相手女性側の籍に入り、名前を吉岡守(よしおか まもる)と改めている。崔の最期の言葉は刑務官に向けて言った「ありがとうって、僕が言ってたって(妻と野沢太三法務大臣に)伝えてください」という言葉だったと言われる。ちなみに遺書は1年前、つまり弁護側が控訴する直前に、その弁護側と、70日間の情状鑑定に立ち会った臨床心理士に宛てたものが本物とされており、また崔は処刑の際は自ら1人だけの足で絞首台に向かったため、事実上首つり自殺したと言える。

崔は今日では単なる犯罪者ではなく、政治的イデオロギーを持ったテロリストであると見られている。

外部リンク

マスコミは「不規則発言」と報じたのみで内容を禁忌事項にし、上記資料でも伏せられている判決時の法廷での暴言といわれる文章。人によっては気分を害する可能性があるので注意。