アメリカ独立戦争

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アメリカ独立戦争
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左上から時計周りに: バンカーヒルの戦いケベックの戦いにおけるリチャード・モントゴメリー将軍の死、カウペンスの戦いサン・ビセンテ岬の月光の海戦
戦争:アメリカ独立戦争
年月日:1775年-1783年
場所北アメリカ東部(今日の アメリカ合衆国カナダ)、大西洋地中海カリブ海
結果パリ条約; アメリカ合衆国の独立
交戦勢力
アメリカ合衆国 (1776年7月4日以前は13植民地)

フランス
スペイン
オランダ
ポーランド志願兵
ケベック志願兵
プロイセン志願兵
オネイダ族
タスカローラ族

イギリス
ロイヤリスト

ドイツ人傭兵
イロコイ連邦
ブラウンシュヴァイク公国

指揮官
ジョージ・ワシントン

ナサニエル・グリーン
ラファイエット
ロシャンボー伯
ガルヴェス伯
タデウシュ・コシチュシュコ
シュトイベン男爵
ベネディクト・アーノルド

ジョージ3世

ウィリアム・ハウ
ヘンリー・クリントン
チャールズ・コーンウォリス(降伏)
ジョン・バーゴイン(降伏)
ヨハン・ラール
ジョセフ・ブラント
バナスター・タールトン
ベネディクト・アーノルド

戦力
アメリカ軍25万名

フランス軍15,000名
スペイン軍8,000名
総計: 273,000名

イギリス軍12,000名

ロイヤリスト50,000名
ドイツ人傭兵40,000名
インディアン5,000名
総計: 107,000名

損害
戦死または戦病死25,000名、負傷25,000名 戦死または戦病死24,000名、負傷20,000名

アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう 1775年 - 1783年)はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。米国では The American Revolutionアメリカ独立革命)若しくはthe Revolutionary War革命戦争)と呼ばれ、主に英国ではAmerican War of Independence(アメリカ独立戦争)と呼ばれている[1]。この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家の形を取った。

戦争の全期間を通して、イギリスはその海軍の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインオランダもその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年フランス海軍チェサピーク湾の海戦で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。1783年パリ条約で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。アメリカ合衆国の独立の社会的背景やその及ぼした影響についてはアメリカ合衆国の独立を参照。

植民地課税問題[編集]

そもそも、アメリカの植民地人に独立を志向させたイギリス本国による課税の原因は、フレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機だった。イギリス政府は1764年に砂糖法1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。

1767年イギリス本国議会タウンゼンド諸法によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、1770年、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残されたため、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。

1773年茶法によって東インド会社が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。

1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地との和解をはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。

一方、1774年に13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままとなった。

1778年までの戦闘員[編集]

軍隊、民兵、および傭兵[編集]

戦争が始まったとき、アメリカには職業的な軍隊も海軍も無かった。各植民地には地元の民兵隊があり、これを使って自らの防衛に充てていた。独立戦争の前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。この民兵隊の一部を除いてほとんどが開戦時にアメリカ軍に加わった。民兵は装備が簡単なものであり、訓練は少しばかり、通常は制服も無かった。民兵は一回の従軍では数週間から数ヶ月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが、数では勝り、レキシントン・コンコードの戦いベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、イギリス軍正規兵がいない地域で王党派軍を抑えるために、アメリカ軍が特に有効にゲリラ戦を使った[2]

ファイル:Us unabhaengigkeitskrieg.jpg
イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵はヘシアンと呼ばれた。

軍事行動を纏めるために大陸会議は1775年6月に正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍の成長は常に動かしながらのことであり、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。アメリカ海軍の起源は、1775年10月13日の大陸会議で大陸海軍のための艦船の建造に承認を与えられた時である。この時、4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の大本も1775年11月10日の大陸会議決議により結成された大陸海兵隊であり、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。11月10日は海兵隊の誕生の日として現在も祝われている。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争の間、約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、一時期に武装した兵士は最大でも9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。このことは戦術的にそうあることが好まれたせいもあるが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった面もあった[3]

1775年の初期、イギリス軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツの公子から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くははヘッセ=カッセから来ていたので、「ヘシアン」と呼ばれた。この軍隊は公子に雇われた職業軍人という意味では傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた[4]

アフリカ系アメリカ人および先住民族[編集]

アフリカ系アメリカ人は解放奴隷もまた奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者の主人に仕える奴隷を徴募した。ジョージ・ワシントンは人員が不足していたので、1776年1月に大陸軍における奴隷徴募の禁令を撤廃した。ロードアイランドマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で従軍した[5]。またイギリス軍側には2万人以上の黒人兵が従軍した.[6]

ミシシッピー川から東にいた先住民族の大半が戦争に関わることになり、多くの種族社会はどのように戦争に関わって行くかで分かれた。先住民族の土地がアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、アメリカに抗戦する道を選んだ先住民族が多かった。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中でも最大のイロコイ連邦は約1,500名であった[7]

北部での戦い 1775年-1780年[編集]

マサチューセッツ[編集]

詳細は ボストン方面作戦 を参照

開戦前のボストンは多くの反抗的行動が続き、イギリス政府は1774年に懲罰のためにマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、このような対策に対しても民衆の間に広がった反抗のために、新しく本国から指名された役人が辞めたりボストン市内に逃げ場を求めたりした。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。

ファイル:Battle of Lexington, 1775.png
レキシントンの戦い

1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」("shot heard 'round the world")という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ってこれを蹴散らした。イギリス軍がボストンに引き上げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。

民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた[8]

1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった[9]

手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアハリファックスの海軍基地まで移動した[10]。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。

カナダ[編集]

詳細は カナダ侵攻作戦 を参照

ボストンでの長い手詰まりの間に、大陸会議は他所で主導権を掴む方策を求めた。大陸会議は当初、フランス系カナダ人を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。

カナダに向けた2つの遠征隊が発進した。1775年9月16日リチャード・モントゴメリー准将が1,700名の民兵を率いてタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊が600名まで減っていた。モントゴメリー隊がアーノルド隊と合流し、12月31日ケベック市で戦ったがカールトンのために完璧に敗れた。残ったアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカにおけるよりも多くの部隊を擁し、戦線をしっかりと守った。

アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返すことを試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは今度はアメリカへの侵入を始め、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破った。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反抗を遅らせることができた。

このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論に支持される根拠を失った。「だからアメリカに対して武力を行使することはあらゆる階層と職業の人々に自由に採用され支持されるのだ」[11]

ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイゼンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。

ニューヨークとニュージャージー[編集]

1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。

イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。

9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日ホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫がほって置かれたまま死んだ。

ファイル:Washington Crossing the Delaware.png
ワシントンのデラウェア川渡河

チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、大陸軍は12月早くにデラウェア川を渡ってペンシルバニアまで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。

大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していたトマス・ペインは「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。

ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って12月26日トレントンの戦いで1,000名近いヘシアンを捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777年1月3日プリンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンはアメリカ側の士気を高めることができたので、その後、モリスタウンで冬の宿営に入った。ニュージャージーの民兵は冬の間もイギリス軍やヘシアンに嫌がらせを続け、イギリス軍はニューヨーク市周辺まで撤退することになった。

大陸会議とワシントンは、ボストン包囲戦のころから情報・諜報戦略を展開しており、占領されたニューヨークを中心とした情報収集、諜報活動では、地域の支援の少ないイギリス軍よりも優位に立っていた。トレントンの戦いの勝利は諜報活動が成果を収めた一例である。ヨーロッパ諸国との情報通信は早くから行われており、この情報優位は終戦まで続くことになった。

イギリス軍の戦略はいつの段階でも国王に対する忠誠を誓って結集してくる王党派の者達の支援を期待していた。1776年2月、ヘンリー・クリントン将軍は2,000名の兵士と海軍の船隊でノースカロライナに侵攻したが、王党派の部隊がムーアズ・クリーク橋の戦いで殲滅されたことを知って引き上げた。6月にクリントンは南部の主要港であるサウスカロライナチャールストンを占領しようとしたが、この時も南部の王党派の決起を期待していた。これは戦争を遂行するには手軽な方法に見えたが、海軍は砦の攻撃に失敗し、王党派の者が町の背後から攻撃を仕掛けることも無かったので、作戦は失敗した。南部の王党派は組織力が弱く効果を表せなかった。1781年までロンドンの上級官僚は、南部から逃げてきた王党派の言葉を信じて、蜂起があるものと思っていた。

サラトガとフィラデルフィア[編集]

イギリス軍が1777年の作戦計画を練り始めた時に、北アメリカには2つの主力軍があった。カナダのカールトン軍とニューヨークのハウ軍であった。ロンドンでは、ジョージ・ジャーメインがこれらの軍隊の作戦を承認したが、連絡の不行き届きと指揮官のライバル意識のために連携がうまく行かなかった。ハウはフィラデルフィアの占領に成功したが、北部の軍隊はサラトガで降伏して失われてしまった。1777年の作戦行動の後、カールトンとハウの2人共に辞職した。

サラトガ方面作戦[編集]

詳細は サラトガ方面作戦 を参照

1777年に最初に動いたのはジョン・バーゴイン将軍に率いられたカナダからの遠征隊であった。その目的はシャンプレーン湖ハドソン川の回廊を確保し、アメリカ植民地全体から見てニューイングランドを孤立させることであった。バーゴインの侵略は2方面から行われた。バーゴイン自身は約1万名の兵士を率いてシャンプレーン湖からオールバニに向かうものとし、もう1隊はバリー・セントリージャーに率いられる約2,000名の部隊でモホーク川渓谷を下り、オールバニでバーゴインと合流するというものだった。

ファイル:Joseph Brant painting by George Romney 1776.jpg
モホーク族の指導者ジョセフ・ブラント。インディアンだけでなく白人王党派の部隊も率いた。この肖像画は宮廷画家ジョージ・ロムニーが1776年にロンドンで描いた

バーゴインは6月に進発し、7月初めにはタイコンデロガ砦を占領した。その後、アメリカ軍が木を切り倒して道を塞いだためにバーゴイン軍の歩みは鈍くなった。物資を確保するために分遣隊を派遣したが、8月にアメリカの民兵隊とベニントンの戦いを行い決定的に敗れて1,000名近い兵力が失われた。

一方、セントリージャーの部隊は、その半分をモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントが率いていたが、スタンウィックス砦を包囲した。アメリカの民兵隊と同盟インディアンが包囲されている味方を救出するために向かったが待ち伏せされて、オリスカニーの戦いで蹴散らされた。2回目の救援隊はベネディクト・アーノルドが率いていたが、セントリージャーは包囲を解いてカナダに退却してしまった。

バーゴインの軍隊は総勢6,000名まで減った。このような痛手を受けたにも拘らず、バーゴインはオールバニへの進軍を続けることを決めた。このことが後に大きなしっぺ返しを食うことになった。大陸軍の将軍ホレイショ・ゲイツは8,000名の部隊を率いて、サラトガの南約10マイル (16 km)の地点に陣地を築いた。9月、バーゴインは大陸軍の側面を衝こうとしたが、フリーマン農場の戦いで反撃された。バーゴイン軍の状態は絶望的なものに変わって行ったが、ニューヨークのハウ軍がオールバニに向かっているという期待があった。しかし、そうはならず、ハウ軍は船で回航してフィラデルフィアの奪取に向かっていた。大陸軍には民兵が続々と集まり続けており、10月の初めには総勢11,000名に達していた。次に挑んだベミス高地の戦いでも撃退されたバーゴインは10月17日に降伏した。

サラトガは戦争の転換点となった。ハウ軍によってフィラデルフィアは奪われたが、アメリカの革命勢力は自信と決意を取り戻した。さらに重要なことは、この勝利によってフランスをアメリカ側に付かせてイギリス軍と対決できるようになったことであった。イギリス軍にとってはこの戦争がより複雑なものに変わってきた[12]

フィラデルフィア方面作戦[編集]

ハウ将軍は1776年にニューヨーク市を占領して、当時の革命勢力の首都であるフィラデルフィアの占領に目を向けた。ハウは緩くりと動いて、チェサピーク湾の北端に15,000名の部隊を上陸させた。ワシントンは11,000名の兵士をハウ軍とフィラデルフィアの間に配置したが、1777年9月11日ブランディワインの戦いで敗北して後退した。9月26日、大陸会議は再びフィラデルフィアを捨てた。ハウはさらにワシントン軍を打ち破ってフィラデルフィアを抵抗もなく占領した。ワシントンは10月初めにジャーマンタウンの近くに宿営していたハウ軍とジャーマンタウンの戦いを、さらに12月初めにはホワイトマーシュの戦いを行ったが、どちらも決定的な勝敗には至らず、退いて待つことにした。

ホワイトマーシュの戦いの後で、ワシントンはバレーフォージを冬の宿営所とした。そこはフィラデルフィアから約20マイル (32 km)の所にあり、次の6ヶ月間を過ごした。冬の間に1万名いた軍隊の2,500名が病気と寒さで死んだ。1778年の春、シュトイベン男爵の訓練の甲斐あって大陸軍は蘇った。シュトイベンはプロイセンの近代的な戦法を教え、訓練され規律ある軍隊を築き上げた。

イギリス軍の総司令官はハウからクリントンに代わった。フランスが参戦したことにより、イギリス軍は戦略を変えて、フランス海軍の脅威の対象となったニューヨーク市を防衛するためにフィラデルフィアを放棄した。1778年6月28日、ワシントンは撤退するクリントン軍を追ってモンマスの戦いを行った。この戦いが北部では最後の大きな戦闘になった。クリントン軍は7月にニューヨーク市に到着したが、それはデスタン伯爵がフランス海軍を率いてアメリカの海岸に現れる直前のことであった。ワシントン軍はニューヨーク市の北にあるホワイト・プレインズに戻った。両軍ともに2年前に対峙した地点に戻ったが、戦争の様相は変わり始めていた[13]

国際戦 1778年-1783年[編集]

1778年、北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは1778年2月6日にアメリカ合衆国と同盟条約を結んだ。1779年6月には、ブルボン家盟約を更新し、スペインがフランスの同盟国として参戦した。しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。スペインはその植民地帝国の中で同じような反乱を助長するのではないかと神経を尖らせていた。オランダ1780年に参戦した。3国共にイギリスの力を削ぐことを期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していた。

さらにラファイエットコシューシコプワスキ欧州義勇軍が参加した。1780年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。

ロンドンでは、国王ジョージ3世がより多くの軍隊を送ってアメリカを従わせるという希望を諦めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争に捉われていたからである。「ペンシルバニアを保持しておこうなどと考えるのは冗談だった」とジョージ3世は言った。ニューイングランドを回復する望みも無くなっていた。しかし、国王は「アメリカの独立は決して認めない。永久に続くように見える戦争を無制限に引き伸ばして、命令に従わない者を罰してやろう」と決心した[14]。国王の計画は、ニューヨーク、ロードアイランド、カナダおよびフロリダの3万名の防衛軍を維持し、他の部隊で西インド諸島にいるフランスとスペインを叩くことだった。アメリカを罰するために国王が考えたことは、アメリカの海上貿易を破壊し、港を砲撃し、海岸に近い町(例えばニューロンドン)を襲って燃やしてしまうことであり、アメリカの先住民を送って辺境の開拓地にいる市民を襲わせることだった。これらの活動でアメリカの王党派を刺激でき、大陸会議をばらばらにし、「反逆者を嫌がらせ、気を揉ませ、貧しいままにしておけば、自然にかつ当然の帰結として不満と失望が後悔と自責の念に変わた暁には」国王の権威の下に戻ることを願うようになるとジョージ3世は考えた[15]。この計画は王党派や忠実なアメリカの先住民族の破壊や金のかかる戦争を無制限に引き伸ばすことも意味しており、またフランスやスペインが艦隊を集めてイギリス諸島を侵略しロンドンを占領する危険もあった。イギリスはヨーロッパの連合軍を処理した後で、反抗している植民地を再度従わせる計画にした。

海上戦の広がり[編集]

詳細は アメリカ独立戦争の海軍作戦行動 を参照

独立戦争が始まった時、イギリスはアメリカ植民地に対し圧倒的な海軍力を誇っていた、帝国海軍には100隻以上の戦列艦と多くのフリゲートやその他小さな艦船があった。ただし、老朽艦が多く、最初の海軍大臣サンドウィッチ伯爵が非難していたようにあまり整備が行き届いているとは言えなかった。開戦後の3年間、海軍は主に陸上兵力の移送と商船の護衛に使われていた。アメリカ植民地側には、戦列艦など1隻も無く、イギリスの商船を襲う私掠船に頼るところが大きかった。私掠船は、フランスが戦争に加担する前からそしてその後もフランスのイギリス海峡に面した港を拠点として活動していたので、帝国海軍を困らせ英仏関係をこじれさせていたが、その物質的な戦果の割には戦争全体に与える影響が小さかった。大陸会議は1775年10月にアメリカ海軍の創設を承認したが、小さなものだったので主に商船への襲撃に用いられていた。ジョン・ポール・ジョーンズ船長が1778年3月24日に英国艦HMSドレークを捕獲し、アメリカ海軍では最初の英雄になった。この海戦はイギリス海軍に対する最初のアメリカ艦船の勝利でもあった[16]

フランスが戦争に加担したことで、イギリス海軍の優越性はそれ程のものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合軍は1778年ロードアイランドの戦い1779年のサバンナの戦いではうまく機能しなかった。その原因の一つはフランスとアメリカの軍事的な優先順位が異なっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立を確保する前に、西インド諸島にあるイギリスの占領地を取りたかった。フランスからアメリカに対する財政的な援助は既に厳しい段階に来ていたので、1780年7月にロシャンボー伯爵が率いる大部隊が到着するまでは、軍事的にあまり有効な結果に繋がるまでには至らなかった。

スペインがアメリカ側で参戦した意図には、1704年にイギリスに占領されたジブラルタルメノルカ島を奪い返すということも含まれていた。3年以上にわたってジブラルタルの包囲戦を行ったが、イギリス軍守備隊は頑強に守り抜き、1780年のセントビンセント岬の海戦におけるロドニー提督の勝利の後は補給も適って防衛できた。それでもフランスとスペインは何とかジブラルタルを取ろうとしたが、失敗に終わった。メノルカ島の方は1782年2月5日にフランスとスペインの連合軍で奪取に成功し、スペインは独立戦争後も正式にイギリスから領有を認められた。

西インド諸島およびメキシコ湾岸[編集]

西インド諸島では多くの戦闘が行われ、特に小アンティル諸島では何度も支配者が入れ替わることがあった。1782年4月のセインツの海戦でイギリス海軍のロドニー提督がフランス海軍のド・グラス伯爵の艦隊を打ち破り、フランスとスペインの連合軍が目指していたジャマイカなどイギリス植民地奪取の望みを絶った。1782年5月8日、スペイン領ルイジアナ総督であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵が、バハマニュープロビデンス島にあったイギリス海軍基地を占領した。このような結果にも拘らず、フランスが占領したトバゴ島の小さな島を除いて、1783年の休戦後は西インド諸島での支配関係を開戦前の状態に戻すことで合意された。

メキシコ湾岸では、ガルベスが1779年にマンチャックの戦い、バトンルージュの戦いおよびナチェズの戦いでミシシッピ川沿いにあったイギリスの基地を占領した。ガルベスは続いて1780年モービルを占領し、1781年にはペンサコーラのイギリス軍基地を降伏させた。この結果、スペインは1783年の休戦時に東フロリダ西フロリダを獲得できた。

インドおよびオランダ[編集]

北アメリカの戦争の余波はインドでの英仏間の争いにも飛び火し、1780年の第二次イギリス=マイソール戦争という形になった。マイソール王国の支配者でフランスとの同盟の中心人物であったティープー・スルタンマドラスのイギリス政府に対抗した。第二次イギリス=マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。ウォーレン・ヘイスティングはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。

1780年イギリスは武装中立同盟に関わったネーデルラント連邦共和国に対し先手を打って攻撃した。武装中立同盟はヨーロッパの数カ国が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであったが、その結果はヨーロッパではイギリスが孤立する形になった。イギリスはネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動とオランダ政府のアメリカに対する友好的な態度が、イギリスの攻撃を呼ぶことになった。第四次英蘭戦争は1784年まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらした。

終戦への道[編集]

南部戦線 1778年-1781年[編集]

詳細は 南部戦線 (アメリカ独立戦争) を参照

独立戦争の最初の3年間というものは、主戦場がアメリカの北部に限られていた。フランスが参戦してからのイギリスは、王党派が多いと思われる南部に目を向けて、王党派の支援を得られればそこを支配できると目論んだ。南部に注力することはイギリス海軍をカリブ海に近く配置させることができ、フランスとスペインの連合軍の脅威を受けているカリブ海植民地を守りやすくするという利点もあった。

1778年12月29日、ニューヨークから転進したクリントンの遠征隊がジョージアサバンナを占領した。クリントンは続いてサウスカロライナチャールストンを包囲し、1780年5月2日に陥落させた。クリントンは比較的少ない損失で南部最大の都市と港湾を確保し、南部制圧への道を切り開いた。

南部の大陸軍はチャールストンで5,000名におよぶ戦力が降伏したために崩壊状態となり、残った兵力はバナスター・タールトン中佐の追撃をうけ、1780年5月29日ワックスホーの虐殺でまた新たな損失を蒙った。大陸軍は組織だった作戦行動をできなくなったが、それでもフランシス・マリオンなどのパルチザンによって抗戦が続けられた。コーンウォリスがイギリス軍の指揮官となり、一方大陸軍は北部からホレイショ・ゲイツを送って南部方面軍の指揮官とした。しかし1780年8月16日、ゲイツはキャムデンの戦いで大陸軍始まって以来の大敗を喫し、コーンウォリスにノースカロライナに進軍する道を与えてしまった。

しかし、コーンウォリスにも事態が変わり始めた。10月7日キングスマウンテンの戦いで彼の一翼を担っていた部隊が完敗した。この戦いは王党派民兵と愛国派民兵の戦いだった。タールトンの部隊も1781年1月17日、大陸軍のダニエル・モーガン将軍とのカウペンスの戦いで決定的な敗北を喫した。

ゲイツの後を継いだナサニエル・グリーン将軍は一連の戦いでイギリス軍を消耗させる戦略に出た。それぞれの戦いはイギリス軍の戦術的勝利になったが、戦略的には得る物がほとんど無かった。グリーンは後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う(We fight, get beat, rise, and fight again.)」で部隊を鼓舞した。コーンウォリスはグリーンの軍隊を打ち破ることもできないままに、北のバージニアへの進軍を決めた。

1781年3月、ワシントン将軍はラファイエットをバージニア防衛のために派遣した。若きフランス将校は3,200名を指揮していたが、この地のコーンウォリスが指揮するイギリス軍は補強されて7,200名になっていた。ラファイエットはコーンウォリスと小競り合いを演じたが、援軍を待つ間は決戦を避けていた。コーンウォリスはラファイエットを捕捉することができず、7月にイギリス海軍と連携を取ってニューヨークへ戻る道を切り開くためヨークタウンに軍を進めた。

北部と西部の戦線[編集]

詳細は 西部戦線 (アメリカ独立戦争) を参照
ファイル:Ftsackville.gif
ジョージ・ロジャース・クラークは冬に290 kmを行軍してカナダ副総督ヘンリー・ハミルトンを捕まえた

アパラチア山脈の西とカナダ国境辺りではアメリカ独立戦争がインディアン戦争と化していた。先住民族の大半がイギリス側に付いた。イロコイ連邦と同じようにチェロキー族やショーニー族は部族によって態度を変えたものもいた。

イギリス軍は同盟した先住民族に武器弾薬を与え、ニューヨーク、ケンタッキーおよびペンシルバニアなどの開拓者集落を襲うことを奨励した。1778年に起こったワイオミング渓谷の虐殺やチェリー渓谷の虐殺に刺激されたワシントンは、1779年の夏にサリバン将軍に兵を与えてニューヨーク西部に遠征させた。サリバンは大きな戦闘もないままに機械的に先住民族の村を破壊し食糧を焼いたので、先住民族はカナダやナイアガラフォールズ地域に逃亡し戻ってくることは無かった。

オハイオイリノイでは、バージニアの開拓者ジョージ・ロジャース・クラーク1778年カスカスキアとビンセンズのイギリス軍基地を奪い、この地域の先住民族に対するイギリス軍の影響力を殺ごうとした。デトロイトを本拠にしていたイギリス軍の指揮官ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦を奪い返した後で、1779年2月クラークはハミルトンを急襲し砦とハミルトンを捕獲した。

1782年、グナデンハッテンの虐殺が起こり、ペンシルバニアの民兵が中立であった先住民族約100名を殺した。1782年8月、独立戦争では最後の会戦となったブルーリックスの戦いで約200名のケンタッキー民兵隊が敗れた。

ヨークタウン[編集]

詳細は ヨークタウンの戦い を参照
ファイル:Surrender of lord cornwallis at yorktown by john trumbull.jpg
ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲

北部、南部および海上の戦いは1781年のヨークタウン1点に収束した。9月早く、フランス海軍はチェサピーク湾の海戦でイギリス艦隊を打ち破り、コーンウォリスの脱出の道を閉ざした。ワシントンはニューヨークから急遽大陸軍とフランス軍を南部に移動させ17,000名の大部隊で10月初めにヨークタウンを包囲した。コーンウォリス軍の立場は急速に耐え難いものになり、1781年10月19日、約7,000名の軍隊全員が降伏した。

ヨークタウン降伏によって、イギリス国王ジョージ3世は休戦の方向に進む議会への支配力を失い、この後は陸上での大きな戦闘が無くなった。この時点でイギリス軍はニューヨーク、チャールストンおよびサバンナにまだ合わせて3万名の戦力を保有していた[17]。西インド諸島における英仏間の争いは続いていた。アメリカの多くの艦船がイギリスの船を襲っていなければ、イギリスはアメリカに更に増援を送ることも可能であった。

ロンドンではヨークタウン以後に戦争維持派の世論が急速にすぼまり、フレデリック・ノース首相は1782年3月に辞任した。翌4月、イギリス下院はアメリカとの休戦法案を通した。1782年11月に休戦の予備協定がパリで結ばれたが、正式の休戦は1783年9月3日パリ条約であった。アメリカ合衆国議会(当時は連合会議)は1784年1月14日にパリ条約を批准した。最後まで残っていたニューヨークのイギリス軍が撤退したのは1783年11月25日であった。

イギリスは同盟していた先住民族と何の相談も無いままパリ条約の交渉を行い、アパラチア山脈からミシシッピー川までの先住民族の土地をアメリカに割譲した。先住民族は不満を抱いたまま、幾つかの条約でアメリカにこれらの土地の割譲を渋々認めたが、これに同意しない種族との紛争が続き、その最大のものは北西インディアン戦争1785年-1795年)となった。

アメリカ13邦は1787年の憲法制定会議で統一国家としての枠組みをなすアメリカ合衆国憲法を制定、翌年発効した。1789年、新憲法の規定に従って初代大統領に選出されたのは、絶望かとも思われた困難な時期に屈することなく大陸軍を率い、圧倒的なイギリス軍との戦争を戦い抜いたワシントンだった。

戦争のコスト[編集]

人的損失[編集]

アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に天然痘の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している[18]

推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名とされている。このうち8,000名が戦死で、残りの17,000名が戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名が含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名と推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる[19]

イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した[20]

およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。

財政的コスト[編集]

イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間950万ポンドとなった。フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となっていった[21]。アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使った。これはフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。アメリカは1790年代までかかって最終的に負債を解決した[22]

イギリスが敗れた要因[編集]

アメリカ独立戦争は、対立した両勢力が元々は同じ国民であったので、外国の地で戦われた内乱という見方もある。とは言っても、アメリカはフランスの援助が無ければ戦いとおすことができなかった戦争でもあった。さらに付け加えれば、イギリスは軍事力において相当に優勢であった。ただし、距離の問題が不利な点であった。援軍も物資も大西洋を越えて運ばねばならなかった。イギリスは港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回った。一方アメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、大西洋を越えるということは情報も2ヶ月やそこら遅れて伝わるということであった。アメリカにいるイギリス軍の将軍がロンドンからの指令を受け取るとき、軍事的な情勢が変わってしまっていることが多々あった[23]

アメリカの反乱を抑えようとすると新たな問題を誘発した。植民地は広大な範囲に広がっており、戦争の前は一体ではなかったので、戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都を制圧することが戦争の終りを意味していた。アメリカでは、イギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したが、戦争はおわらなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えるに足る兵力が必要となることを意味していた。ある地域を占領したとして、イギリス軍が占領のための兵を置いておかねば、革命軍がそこを再び支配してしまうことになった。占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味した。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を敲くには十分な兵力を保持していても、同時に占領を続けるには足りていなかったことになった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は特に重大な問題になった。何故ならば兵力を幾つかの戦線に分散させざるを得なかったからであった[24]

イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行するという困難さもあった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠であったが、このために軍事的な制限も起こった。戦争の初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘のさいの効果を削いでいた可能性がある。また、イギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派の存在を疎遠にしたし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられる。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍はアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限を付けていてそれでも、潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていった。これらの要因が組み合わされてアメリカにおけるイギリスの支配は終り、革命派は自らの国、アメリカ合衆国を打ち立てた[25]

また、武器の性能にも決定的な違いがあった。アメリカ側の銃は当時バッファローに遭遇する危険性があり、銃身内部に螺旋の溝をいれたことでより射程距離、命中精度、破壊力の高い銃を実現することに成功した。一方イギリス側は旧式の銃であり、物量に勝るものの十分に近づかなくてはならなかったため大きな犠牲を出すこととなった。

独立宣言署名州[編集]

ニューハンプシャー州マサチューセッツ州ロードアイランド州コネティカット州(以上、ニューイングランド)、ニューヨーク州ペンシルヴァニア州デラウェア州メリーランド州ヴァージニア州ノースカロライナ州サウスカロライナ州ジョージア州ニュージャージー州の13州。

ニューイングランド6州のうち、バーモント州メイン州はこれに含まれていない。バーモント州がイギリスから独立したのは1777年であったが、ニューヨーク州との領土問題を抱えており、連邦への加盟は1791年と遅れた。バーモント州は14番目の州である。また、メイン州は独立宣言の時点ではマサチューセッツ州の飛び地で独立した州ではなかった。同様に、15番目の州であるケンタッキー州ウェストバージニア州はヴァージニア州の一部であった。

ヨーロッパへの影響[編集]

勝利を喜んだのはアメリカだけではなくフランス王国もそうだった。熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したフランスブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命をおこす要因となった。

またアメリカ独立宣言フランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。また独立戦争に参加したポーランド人タデウシュ・コシチュシュコは、故国ポーランドにおけるポーランド分割に対抗して反乱を起こした。

なお、アメリカ合衆国の独立を最初に承認したのは、スウェーデンであった。1783年には、友好関係も結んだ。

フリーメイソンリーの影響[編集]

ベンジャミン・フランクリンジョージ・ワシントントーマス・ジェファーソンジョン・ハンコックサミュエル・アダムズなど主要人物にフリーメーソンが多かったため、フリーメイソンリーよって起こされた革命と見る説もある。

年譜[編集]

西暦 月日
内容
1754年 - 1763年 フレンチ・インディアン戦争
1764年 砂糖法
1765年 印紙法
1767年 タウンゼンド諸法
1773年 12月16日 ボストン茶会事件
1774年 第1回大陸会議が開かれる
1775年 4月19日 レキシントン・コンコードの戦い独立戦争始まる
5月10日 第2回大陸会議が開かれる。1781年3月1日まで。
6月17日 バンカーヒルの戦いでイギリス軍が辛くも勝つ。
1776年 3月17日 大陸軍によりボストン解放される。
7月4日 独立宣言アメリカ合衆国が誕生する。
8月27日 ロングアイランドの戦いでイギリス軍がニューヨークを占領する。
12月26日 トレントンの戦いで合衆国軍がイギリス軍のドイツ傭兵部隊を破る。
1777年 1月3日 プリンストンの戦いで合衆国軍が勝つ。
9月11日 ブランディワインの戦いでイギリス軍が勝利、フィラデルフィアを占領する。
9月19日 第一次サラトガの戦い
10月7日 第二次サラトガの戦い イギリス軍のバーゴイン将軍が降伏する。
1778年 2月6日 フランスアメリカ合衆国と同盟し、参戦する。
6月28日 モンマスの戦い 北部での最後の戦い
12月29日 イギリス軍がジョージア州サバンナを占領する。
1779年 6月 スペインフランスと同盟を結んでいることを理由に参戦する。
1780年 5月12日 イギリス軍がチャールストンを占領する。
8月16日 キャムデンの戦いで合衆国軍が大敗する。
10月7日 キングスマウンテンの戦いで合衆国軍が王政派軍を破る。
1781年 9月5日 チェサピーク湾の海戦でフランス艦隊がイギリス艦隊を破る。
10月17日 ヨークタウンの戦いでイギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍が降伏する。
1782年 4月 イギリス議会が停戦を決議する。
1783年 9月3日 パリ講和条約が締結される。
11月19日 イギリス軍がアメリカから撤退する。

人物[編集]

脚注[編集]

  1. イギリスの著述家は一般に"American War of Independence"または"War of American Independence"を好む。戦争名の使い方についてはOmohundro Institute of Early American History and Culture, Bibliography at [1] を参照。
  2. Black, War for America: The Fight for Independence, 1775-1783, p. 59. On militia see Boatner, p. 707 and Russell F. Weigley, The American Way of War (1973), ch. 2.
  3. Boatner, p. 264では最大のワシントン軍は「17,000名以下」だったとしている; Christopher Duffy (The Military Experience in the Age of Reason, 1715-1789, p. 17) ではワシントン軍の最大数は「13,000名に過ぎなかった」と推定している。比較のために、フリードリヒ2世は戦場で通常1,000名から2,000名の兵士を指揮していたと Duffy は記している。
  4. Black, pp. 27-29; Boatner, pp. 424-26.
  5. Revolutionary all-black units: Kaplan and Kaplan, pp. 64-69.
  6. American Revolution - African Americans In The Revolutionary Period
  7. James H. Merrell, "Indians and the New Republic" in The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution, p. 393; Boatner, p. 545.
  8. Higginbotham p 75-77
  9. Orlando W. Stephenson, "The Supply of Gunpowder in 1776," American Historical Review, Vol. 30, No. 2 (Jan., 1925), pp. 271-281 in JSTOR
  10. Arthur S. Lefkowitz, "The Long Retreat: The Calamitous American Defense of New Jersey 1776, 1998. Retrieved September 10, 2007.
  11. Rockingham to Burke Sept 1776, Watson The Reign of George III p. 203
  12. Higginbotham pp 188-98
  13. George Athan Billias. George Washington's Generals and Opponents: Their Exploits and Leadership (1994); Higginbotham pp 175-188
  14. George Otto Trevelyan, George the Third and Charles Fox: The Concluding Part of the American Revolution. (1912) vol 1 p. 4
  15. Trevelyan, George the Third and Charles Fox vol 1 p. 5
  16. Higginbotham pp 331-46
  17. Number of British troops still in America: Piers Mackesy, The War for America: 1775-1783, p. 435.
  18. Smallpox epidemic: Elizabeth Anne Fenn, Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775-82, p. 275. A great number of these smallpox deaths occurred outside the theater of war?in Mexico or among Native Americans west of the Mississippi River. Washington and inoculation: Ellis, His Excellency: George Washington, p. 87.
  19. American dead and wounded: John Shy, A People Numerous and Armed, pp. 249?50. The lower figure for number of wounded comes from Chambers, p. 849.
  20. British seamen: Mackesy, p. 6, 176.
  21. Robert and Isabelle Tombs, That Sweet Enemy: The French and the British from the Sun King to the Present (2007)p. 179
  22. Merrill Jensen, The New Nation (1950) p 379
  23. Black, p. 39; Don Higginbotham, "The War for Independence, to Saratoga", in The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution, p. 298, 306.
  24. Higginbotham, p. 298, 306; Black, p. 29, 42.
  25. Harsh methods: Black, pp. 14–16; slaves and Indians: Black, p. 35, 38. Neutrals into Revolutionaries: Black, p. 16.


アメリカ独立戦争を題材にした作品[編集]

映画[編集]

ゲーム[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Black, Jeremy. War for America: The Fight for Independence, 1775-1783. (2001). Analysis from a noted British military historian.
  • Boatner, Mark Mayo, III. Encyclopedia of the American Revolution. 1966; revised 1974. ISBN 0-8117-0578-1. Military topics, references many secondary sources
  • Chambers, John Whiteclay II, ed. in chief. The Oxford Companion to American Military History. Oxford University Press, 1999. ISBN 0-19-507198-0.
  • Duffy, Christopher. The Military Experience in the Age of Reason, 1715-1789. (1987). ISBN 0-689-11993-3.
  • Ellis, Joseph J. His Excellency: George Washington. (2004). ISBN 1-4000-4031-0.
  • Fenn, Elizabeth Anne. Pox Americana: The Great Smallpox Epidemic of 1775?82. New York: Hill and Wang, 2001. ISBN 0-8090-7820-1.
  • Greene, Jack P. and J.R. Pole, eds. The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution. Malden, Massachusetts: Blackwell, 1991; reprint 1999. ISBN 1-55786-547-7. Collection of essays focused on political and social history.
  • Higginbotham, Don. The War of American Independence: Military Attitudes, Policies, and Practice, 1763-1789. Northeastern University Press, 1983. ISBN 0-930350-44-8. Overview of military topics; online in ACLS History E-book Project.
  • Kaplan, Sidney and Emma Nogrady Kaplan. The Black Presence in the Era of the American Revolution. Amherst, Massachusetts: The University of Massachusetts Press, 1989. ISBN 0-87023-663-6.
  • Mackesy, Piers. The War for America: 1775-1783. London, 1964. Reprinted University of Nebraska Press, 1993, ISBN 0-8032-8192-7. Highly regarded examination of British strategy and leadership. online edition
  • Shy, John. A People Numerous and Armed: Reflections on the Military Struggle for American Independence. New York: Oxford University Press, 1976 (ISBN 0-19-502013-8); revised University of Michigan Press, 1990 (ISBN 0-472-06431-2). Collection of essays.
  • J. Steven Watson; The Reign of George III, 1760-1815. 1960. standard history of British politics. online edition
  • [1] http://www.biographi.ca/EN/ShowBio.asp?BioId=36577&query=Moses%20AND%20Hazen

外部リンク[編集]

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