落語協会分裂騒動

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落語協会分裂騒動(らくごきょうかいぶんれつそうどう)は、1978年に、落語芸術協会と共に江戸落語の団体として知られている落語協会において、当時の同会会長5代目柳家小さんらが導入した真打自動昇進制度に反発して、当時の同会顧問6代目三遊亭圓生が脱退したことをきっかけに発生した事件。

江戸落語衰退のきっかけになる等、後の歴史に暗い影を落とした事件である。

事件の序章[編集]

6代目三遊亭圓生は落語協会会長として目覚ましい働きをした。その筆頭は、日本橋と浅草の寄席における初席を奪取したことである。特に日本橋については、(一応理屈は通っているものの)圓生のごり押し以外に合理的に説明できる要因はない。初席を取られた落語芸術協会(旧日本芸術協会)は、落語協会に対してというよりも圓生個人に対しての怨嗟が膨らんでいった。

この感情は当騒動で爆発し、席亭に対し、圓生の新協会(落語三遊協会)を壊滅させるため、落語芸術協会は組織として一致して動いた。当騒動の時、落語芸術協会会長4代目桂米丸は、「成田の学生(中核派革労協第四インターなど極左テロリスト)を連れて来てでも、(落語三遊協会壊滅の闘いを)やりますよ」と、信じられないような物騒なことを言っている。芸術協会にとって、この騒動は、組織の存亡をかけた戦争、ヤクザで言えば出入りであった。
席亭の中でも、鈴本演芸場(上野)は内心では圓生新協会に賛成であったが、新宿末廣亭(新宿)のツルの一声で、全ての席が新協会設立に対し反対となった。席亭北村銀太郎のインタビュー(聞書き・寄席末広亭)を読むと、北村は圓生の人間性を否定したことがわかる。なぜ圓生に否定的だったかというと、北村が芸協サイドに立っていたからとしか言いようがない[1]。因みに、同書では圓生の惣領弟子である5代目三遊亭圓楽も否定しているが、それは芸の水準が低いことに対してであった。(当時、テレビ中心の活動を行っていた5代目圓楽の芸に対しては北村以外にも批判的な意見を述べる者が多かった。決して北村と5代目圓楽の仲が悪かったわけではないのは「新宿の楽屋ではいつも(北村)銀太郎さんと麻雀をやっていた」という5代目圓楽の著書の記述からも伺える。)
圓生は、自分の行動に対して強い反感をもつ者(芸協)が落語界にいること、そしてその者は席亭と強く結託していることを見抜けなかった。あるいは見抜けても重要視しなかった。その報いが最悪の形で出たのが当騒動である。
各席のうち、浅草演芸ホール(浅草)と池袋演芸場(池袋)は新宿に白紙委任に近い状態であった。本当に新協会の側に立とうとしているのは上野だけであった。落語協会会長・5代目柳家小さんはこうした状況を見抜いた上で「三遊協会を出演させるのであれば、落語協会は上野に出演させない。一年くらいの出演料を補償できるくらいの財力が、落語協会にはある」と上野に脅しをかけた。この脅しに上野は震え上がった。落語芸術協会の芝居は採算割れをしており、その赤字を落語協会の芝居の利益で埋めているのが実情だったからである(余談だが、後年上野のこうした実情が上野での落語芸術協会の番組編成にも影を落とし始め、結局は落語芸術協会の上野撤退へとつながっていく)。新協会がそれだけの儲けを生み出すとは思えない。そのため上野が折れた。かくして、新協会を「東京の全定席から締め出し」という異常な結果になったのである。

加えて、圓生会長は、真打昇進の水準を極めて高くし、ごくわずかの者しか真打にさせなかった。そうすると、いつまで経っても真打になれない“滞貨”が大量に生まれるが、その者達は一生二つ目でもいい、というのが圓生の本音であった(5代目圓楽は、師匠圓生を評して「芸のこととなると、信じられないほど冷酷無残になる」と言っている)。結果として小さんが後任の会長に就任した時には二つ目を10年以上勤める者が40人にまで膨れ上がっていた。

圓生に見捨てられた“滞貨”の中には、他ならぬ圓生の弟子が二人含まれていた。そのようなことがあっても、彼ら二人は圓生を慕っていた。しかし、圓生は、「自分が見限った者達は、表面ではニコニコしているけれども自分に対し強い恨みを持っているに違いない、最後には裏切るに違いない…」と信じ込んでいた。その二人とはさん生と好生で、この騒動で思わぬ伏兵となる(後述)。

しかし、彼らの人生を否定するかのような所業は、圓生以外の者にはできる筈もない。後任会長の小さんはまず5代目圓楽に真打昇進できずにいた二つ目達を集めて話を聞くよう指示し、二つ目達からは「真打になりたい」という意見が次々に出されたため、5代目圓楽は小さんに“滞貨”一掃を進言。これを受けた小さんは1973年3月と9月に大量の真打昇進を行い、“滞貨”を一掃する道を選んだ。顧問圓生にとって、こうした動きは我慢ならなかったはずである。そして、これが、この騒動で厳しく問われた論点であった。

背景は価値観の違いと人間関係[編集]

江戸落語界には、入門から見習い→前座二つ目真打という昇進システムが存在している。世間から真に一人前の落語家と見なされ、弟子を取ることが可能となる真打昇進は、当時の落語協会では、師匠・協会会長・席亭全体の承認を必要条件としていた(圓生会長時代の落語協会には理事は存在しなかった)。実際には、会長または顧問の独断で決定した。

1965年1972年の落語協会会長であった圓生は、真打が落語家の階級のゴールであるとの持論から、真打昇進には非常に厳格な考えを持ち、特に落語については古典落語絶対権威主義ともいえるかなり保守的な思想の持ち主で、新作落語の価値を徹底的に否定していた。そのため、新作落語主体の二つ目が、お客を笑わせるテクニックを持っていても、「古典の出来ない噺家に真打の資格なぞありゃせん」の一言で真打昇進を没にしたという逸話があった程である。しかし、新作主体で売っている噺家にしてみればこれは侮辱以外の何者でも無く、圓生時代は真打昇進が古典主体、それも限られた人数であるため、常に不満が燻っていた。また、テレビやラジオの演芸番組の影響を受けて落語家を志し入門した若手が、昇進する時期に差し掛かっていたことも事態に拍車を掛けており、この真打問題とは、ある意味で落語協会の抱えた時限爆弾ともいえる喫緊の懸案で、まさに爆発は時間の問題であった(同じ頃、落語芸術協会の方でも2代目会長になった5代目古今亭今輔が「二つ目を15年勤めた者は自動的に真打にする」という制度を作るよう提案しており、真打昇進問題が江戸落語界全体で大きくクローズアップされていた)。但し、真打昇進を決める権限を持っていた会長圓生にとっては、自身の落語観に基づいて決めているものでその様な認識は全くなく、小さんなどの『圓生後』の協会中枢を担う者達が気を揉んで、真打昇進出来ない後輩達をなだめているという状態であった。

1972年4月、圓生は会長を退任。後任として会長に就任した小さんは、新作主体の噺家が不満を抱く真打問題を解消するため、兄弟子8代目林家正蔵(後の林家彦六)の同意を得て、大量真打昇進制度を導入。だが、正蔵といえば、圓生会長時代の落語協会副会長であり、圓生の元弟弟子であり、新たに圓生と共に協会顧問に就任した人物であるが、しかし、圓生から見れば落語観もスタイルも何から何まで自身の価値観に合わず、また悶着も絶えず、そのため『天敵』と言われるほどの関係であった。そのため、圓生からしてみれば、前会長の自分には一言もないままに、正蔵だけに話を通されたことは面白くない。

つまるところ、落語や真打昇進に関する価値観の違いと、自身の気に入らない落語家、特に正蔵に対する憎悪の激しさが、圓生が団体分裂を目論んだ背景として挙げられている。

なお、この他にも、圓生は神輿として体よく担がれただけという見方もあり、この場合、騒動の首謀者(黒幕)とされる人物として、総領弟子の5代目圓楽や7代目立川談志の名が挙がる。さらには、5代目圓楽・談志黒幕説の場合、彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた3代目古今亭志ん朝の香盤を下げるため(志ん朝、5代目圓楽、談志の順を談志、5代目圓楽、志ん朝に変えようとした)に仕組んだとする見方もあるなど、騒動勃発の原因にも様々な説があり、今なお不透明な部分の多い難解かつ不可解な事件として、落語史に残ることとなっている。

事件の勃発[編集]

1978年5月9日の落語協会理事会において、大量真打昇進制度二つ目昇進から10年以上経過の噺家は自動的に真打昇進出来るシステム)の諸問題が議題に挙がった。

顧問であった圓生は、「真打はたとえ年数が幾らかかっても芸道を精進しきって初めて昇進出来る」という会長時代からの持論を声高に主張。大量真打制度賛同者(5代目春風亭柳朝4代目三遊亭金馬3代目三遊亭圓歌)を常任理事の職から解任し、自分と同調する若手落語家(5代目圓楽・談志・志ん朝)を常任理事にする、そして同制度を廃止する案を提示した。

しかし、会長小さんを含めた幹部の反対で、圧倒的大差で否決されてしまった。賛成はわずかに圓生・志ん朝のみであった。談志はなぜか棄権している。

圓生は、これにより協会脱会を決意。3日後の5月12日に、総領弟子5代目圓楽以外の弟子達に、退会する旨を伝える。この時点では、圓生だけ単独で落語協会から脱退しフリーランスとなり、弟子達は落語協会に全員残留し、但し真打になっていない者と希望する者は総領弟子5代目圓楽の弟子に直る予定だった。

圓生のこうした動きを聞いた5代目圓楽は一度は止めようとしたが、圓生の決意が固かったために説得を諦め、「何があろうと私は師匠についていきます」と自分も脱会すると圓生に通告。2日後の5月14日には、なぜか一門全員が、脱会して新たなる団体を設立するという話になっていた(5代目圓楽の暗躍が囁かれる所以である)。また、5代目圓楽は桂歌丸2代目桂小南ら落語芸術協会所属の噺家にも参加を呼びかけ、賛同者を増やそうと動いていた。(両者とも参加せず。結局落語芸術協会からは誰も新協会には参加しなかった)[2]ここに分裂騒動が勃発する。

落語三遊協会波乱の設立[編集]

12日後の5月24日に、圓生は、東京都港区赤坂プリンスホテルで、総領弟子5代目圓楽、志ん朝、圓蔵、圓蔵の2番弟子5代目月の家圓鏡(現8代目橘家圓蔵)と共に記者会見を開き、落語協会を脱会して、第3の団体・「落語三遊協会」を設立することを発表する。

圓生は、真打乱造による落語の低質化が、脱会して新団体設立に到った理由であると説明したが、当時、真打乱造により落語自体の低質化が言われていただけに、圓生の訴えは落語ファンは勿論ながら一般の心をも掴み、小さんら落語協会執行部へ対し批判や怒りの声が上がった。ここにファンや一般世論を味方につけることに成功したわけで、噺家仲間から賛同者を集め、落語協会所属者の半数以上が新団体に移ってくるという胸算用や、これにより寄席の席亭からも了承を得られるという打算があって決意したものであったが、実際にはここから誤算の連続が始まる。

落語界やその周囲に肝心の強力な賛同者が現れないばかりか、圓生の弟子の中からも2番弟子さん生、3番弟子好生が新団体不参加を表明するなど、圓生一門ですら磐石の一枚岩ではなかった実態が明らかとなる。さらに、予定していた中では最も強力な賛同者であったはずの談志(そもそも、圓生に新協会設立の話を直接持ち込んでその気にさせたのは談志であると5代目圓楽の著書にある)が、新協会の新たな香盤(志ん朝、談志、5代目圓楽、圓鏡の順)に不満を抱いて突如として協会残留を決め込む。記者会見場には圓蔵が連れてくる手筈であったという、総領弟子で落語協会理事で当代きっての売れっ子、つまり新団体側にとって最大の切り札になる筈であった林家三平は姿を現さず、志ん朝の実兄で落語協会副会長の10代目金原亭馬生とその一門もまた小さんの慰留や馬生の年齢などを理由に不参加[3]など、当初の目論見がどんどん狂ってゆく。

このようなことになり、実際の参加者数を見れば全く規模の小さな団体となってしまった。これを見た東京都特別区全寄席の席亭が話を合わせ、「新団体・落語三遊協会の寄席使用は罷りならん」との声明を翌5月25日に発表したことが決定打となる。かくて、圓生に吹いた追い風は、新団体設立発表からわずか1日にしてぴたりと止まってしまった。

自らの性格から見限られた圓生[編集]

圓生は、落語家としての話術だけで見るならば、20世紀に活躍した人物を見渡しても5代目古今亭志ん生8代目桂文楽などと並んで、掛け値なしの名人と称するに相応しい希有な存在である。また、膨大な量の落語を他の落語家に先駆けて音源として記録するなど、江戸文化そのままの保守性も根強かった当時の落語の近代化に果たした役割も小さくなく、20世紀、とりわけ戦後の江戸落語を支え、文化の発展に大きな足跡を残した功績者であることは紛れもない事実であり、この面では現在でも高い評価が与えられている。

だが、1941年の6代目圓生襲名時、5代目蝶花楼馬楽(後の8代目正蔵)から「あの人に6代目が務まる訳がない」と酷評されたのをきっかけに、徹底敵視したり、正蔵の弟弟子4代目鈴々舎馬風から落語がどうのと文句をつけるなと罵倒されるや、クスグリに使ってこき下ろしたほど徹底敵視したり、他にも基本の落語観が合わない三平を誹謗したり、と好き嫌いがはっきりした、言い換えれば自身の価値観に相容れない者を全く許容できない性格で、人間関係を見れば齟齬の非常に多い人物であった。この好き嫌い、とりわけ嫌悪した対象を激しく非難する性格が仇となり、強力な賛同者を得ることができず、分裂騒動の際にも、守旧的な落語観と共にこの性格が協会残留組には避けられ、さらには敗北の大きな要因になったという節が、結果から見た場合には少なからずある。

実際、参加した一門の中にあって落語協会残留を選択した、圓蔵の総領弟子三平、圓生の2番弟子さん生、3番弟子好生は、それ以前から圓生に諸々の理由で酷評され、徹底的に嫌われており、何れも新団体不参加の最大の理由は中心人物が圓生であったことであると言われている。

ちなみに、個々の事情を言えばおよそ以下の様な要因がある。
  • 林家三平 - 高座に上げるものが基本的に新作落語であるうえ、「お客様に受けること」を大切にする考えが圓生の落語観と全く一致せず、三平はもとよりその門下までもが圓生の嫌悪・誹謗の対象にされていた(実際に後述のさん生を真打にしない理由を告げる際に、合わせて三平の惣領弟子林家こん平の真打昇進を快く思っていない旨を告げている)。
三平はこのことをよく把握しており、圓生が会長となる新団体に移籍したところで自身も弟子たちも不遇な扱いを受けるであろうことは火を見るより明らかと考え、新団体へは参加する素振りも見せなかった。
  • さん生 - 圓生が嫌悪した新作落語に取り組んだため。また酒癖の悪さも圓生は嫌悪していたという。
  • 好生 - 下手だった若年時代に『圓生の影法師』と言われる程に模倣しているととられたため。
さん生と好生は生え抜きの弟子であるにも関わらず、真打昇進では8代目春風亭柳枝門下から移籍して来た6番弟子6代目三遊亭圓窓、4番弟子三遊亭圓彌の移籍組に先を越されるなど、徹底的に冷遇されたことから、圓生に対する不満は大きかったと考えられている。
なお、さん生よりも好生の方が半年早く真打昇進となっている。

なお、当初参加予定と目されていたが参加しなかった者の中でも、不参加の事情が少々異なるのが談志である。談志は落語三遊協会の次期会長の座は自分で間違いないと思い込んでいたが、圓生に電話で確認したところ、圓生に「次の会長は志ん朝だ」と言われ、これで寸前になって参加を取り止めたといわれる。

脱落者続出→圓生急死により自然消滅で終止符[編集]

席亭達による締め出し戦術が、三遊協会参加者に与えた衝撃は大きかった。三平など残留組の説得を受ける形で、圓蔵・志ん朝・圓鏡はわずか数日で降参し、一門と共に退会届を撤回して、5月31日をもって落語協会へと正式に復帰する。

師匠の協会復帰により三平は破門されずに済んだ。だが、一方で、師匠を信じて付いて行った他の弟子たちにとっては、師匠の言動にいい様に振り回され、挙句の果てに、落語協会への復帰はどうにか叶ったものの香盤を大きく下げられる(香盤の降下によって修行中の弟子たちの昇進は大きく遅れる)羽目になったのであるから、この分裂騒動では甚大な迷惑を被っただけであった。志ん朝は会長小さんの温情もあって表向きには香盤が下がらなかった[4]ものの、終生ついに協会会長の座に就かなかったのは、小さんの健在や圓歌の存在、志ん朝自身の早死に[5]もあったにせよ、やはりこの騒動の影響と考える向きもある。

師匠圓生の意向に背き残留したさん生・好生は、既に5月17日に破門を通告されており、5月28日に強制的に芸名を返却させられた。これを受けて、落語協会は両名を別の師匠の客分格の弟子という扱いとし、さん生は会長小さん一門で川柳川柳、好生は天敵正蔵一門で春風亭一柳に改名して再出発した。この時、両名は圓生の全く個人的な感情から悲惨な冷遇を受けていたことが、関係者などのインタビューで次々と明らかにされ、世間から大きな同情を集めた。

こうした事実が白日の元に晒されたことにより、一転して圓生は世間から徹底的に非難されることとなり、最初の追い風は完全に猛烈な逆風に変わっていった。こうして、「落語三遊協会」は歓迎されないまま、6月1日に圓生一門だけで出発。6月14日に上野本牧亭で旗揚げこそしたが、以後は落語の定席に上がることなく、後援者の招きなどを中心とした公民館や小ホールなどでの細々とした余興で食い繋ぐことを余儀なくされた。

圓生達は休む間も無く仕事を続けたものの、1979年9月3日、圓生79歳の誕生日に千葉県内で後援会の集いで小噺を行った直後、急性心筋梗塞を発症して高座で倒れ、そのまま急死。これにより、三遊協会は事実上の自然消滅。圓生夫人の山崎はなの差配もあり、総領弟子5代目圓楽以外の一門弟子は、1980年2月1日付で落語協会へ協会預かりという身分で復帰したものの、やはり香盤は大きく下げられることになった。

かくして、分裂騒動は圓生側の事実上の完全敗北という形で終止符が打たれた。

その後もくすぶり続けた「分裂騒動」[編集]

分裂騒動後、落語協会は、1980年10月2日に、大量真打昇進制度に代わる新制度「真打昇進試験」を導入した。歌舞伎界では日本俳優協会による名題試験があり、それから筆記試験を省いたようなものと捉えられていた。しかし、名題試験のようにミスがなければ全員合格というような運用をしなかった。ある回は全員合格、ある回は全員不合格、というように、合格基準がはっきりせず、特に外野の評論家の意見(前回は全員合格なんて甘すぎたんじゃないのかい、と言われると、異常に厳しくなる)に悪い意味で左右されていたようだった。この様な状況下、1983年に理事談志が試験制度の運用に異議を唱えて脱会し、波紋を広げた。脱会した談志は自らを家元とする落語立川流を立ち上げ、真打・二つ目の昇進に厳格な試験制度を設けることで自らの持論を実践に移した。

最終的には、1987年の真打昇進試験で、三平という偉大過ぎる父親を持ち当時は親の七光という酷評が絶えなかった林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)が合格する一方で、次代を担う若き名手と評されていた古今亭右朝が試験で落とされるという「事件」が起きる。席亭はこの結果を承服せず、落ちた右朝の真打披露興行を独自に、こぶ平ら合格者より先行して行うと通告。これに慌てた協会は真打試験で落としたはずの右朝の真打昇進を決定。これにより真打試験は全く無価値となり、真打試験制度も完全崩壊してしまった。

結局は、この1987年の試験を最後に試験制度そのものが廃止された。以後、落語協会はほんの数人の抜擢を例外とすれば、昇進については香盤を基本とする年功序列が厳格に適用されることとなった。現在の制度は今のところ不満なく動いている。

師匠圓生没後も5代目圓楽は唯一落語協会に復帰しなかった。他の脱退者と同様に復帰の話はあったが、悩んだ末に「出戻りになる上、協会の実力者であった師匠が亡くなってしまっては戻っても冷や飯を食わされるのは確実」と復帰しない道を選んだ。一門弟子たちもこれに同調し、5代目圓楽は1980年2月1日に一門弟子を集めて、新団体大日本落語すみれ会を設立。これは、その後数回の改名を経て、円楽一門会として現在も活動している。5代目圓楽は、『寄席文化の復興』を謳い、私財を投じて1985年4月に寄席若竹を開場させたものの、これも弟子達が生活のためもあって余興に専念したことや採算面の問題などから、1989年11月25日に閉鎖を余儀なくされた。新築の寄席をわずか4年で閉鎖した後、5代目圓楽は寄席復帰を上野鈴本など各方面に働きかけ続けた(5代目圓楽は騒動前の1971年8月から上野鈴本で独演会を行っており、騒動でいったんは中断したが1978年10月から再開し1984年まで続いた)が、事態は動かなかった。その後、5代目圓楽は2005年10月に脳梗塞を患い、2007年2月25日の高座をもって引退を表明した。だが、引退後も5代目圓楽が一門会に影響力を残していることに加え、騒動の際に5代目圓楽と共に落語協会を脱退した5代目圓楽の直弟子達(1978年5月の時点で鳳楽(脱退当時は楽松)、圓橘(脱退当時は友楽)、楽太郎が二つ目、楽之介(脱退当時は賀楽太)が前座でいた)が健在であることから、落語協会と円楽一門会の対立は現在でも根強く残っている。

他方では、1980年7月に、圓生の元弟子春風亭一柳が、自著で圓生を痛烈に罵倒して世間を驚かせたが、一柳は翌1981年7月9日、突如として投身自殺を遂げてしまう。圓生との対立などの長年の心労の蓄積などから、精神面を害してしまった末の悲劇と言われている。

同じく圓生の7番弟子三遊亭圓丈が、1986年に自著『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』を発表、分裂騒動の首謀者は兄弟子5代目圓楽であると非難し、旧圓生一門を分裂させた分裂騒動とその後の混乱の責任は圓生にあると非難した。

結局のところ、圓生は自ら引き起こした分裂騒動で、自らの一門を事実上の空中分解に追い込んでしまった。「三遊亭圓生」の名が死後封印され、誰も継げなくなってしまった[6]ことも含め、大きすぎる禍根を残した。

事件の総括[編集]

大量真打昇進制度をめぐって発生した落語協会分裂騒動は、「日本お笑い史の転換点」ともいえる演芸史にとっては決して小さくない事件である。また、東京では当時は落語協会が一大主流派と目されていたが、この騒動により地位が低下した。

また、圓生死後も協会を脱退したままで活動を続ける5代目圓楽一門の存在により、定席への出演さえ考慮せずホールや会館などでの活動に重点を置く(騒動の前後から全国でホール落語が盛んになっていたことも追い風になり、むしろ定席の拘束を受けることなく全国のホール等へ出向けるようになっていた)ことで、東京の落語においても「フリーランスの落語家」の活動が可能であることが明らかとなった。これが、後年の談志一門の脱退や、完全フリーランスの落語家(2代目快楽亭ブラック等)の登場にも繋がってゆく導火線となる。

予言映画「春だドリフだ全員集合!!」[編集]

騒動から遡ること7年前、志村けん[7]が未だ加入せず荒井注が在籍していたザ・ドリフターズは、自身のプログラム・ピクチャー「春だドリフだ全員集合!!」(1971年、松竹)で、この騒動を再現している。時期が前なので再現というのはおかしいが(予言というべき)、そう表現したくなるほど酷似している。

この映画では圓生、小さんを俳優として起用している。特に圓生はドリフと並ぶ準主役の座を与えられている(セリフの数も多い)。圓生は、落語協会ならぬ“落語協団”幹部である大看板の落語家で、いかりや長介は、その弟子で二つ目という役。小さんは、同協団の会長。ラストシーンは、落語協団幹部が旅館で会合を開き、圓生が弟子いか長の真打昇進をもちかけるが、その瞬間にいか長らドリフがテロリスト用の爆弾を持って乱入。幹部を爆弾で吹き飛ばすという落ち。最後に、圓生が、小さんに対し手をついて、「この責任を取って今日限りで落語協団を辞めます」と告げる。

これを発見したのは、2代目快楽亭ブラックである。ブラックの発言を受けて、2007年、シネマアートン下北沢の落語映画特集の一本として当作が取り上げられた。ビデオは、VHSカセット松竹ホームビデオから発売されている。

脚注・出典[編集]

  1. 芸協初代会長で相談役6代目春風亭柳橋と北村は懇意にしており、晩年は芸協に在籍していた5代目柳亭左楽の娘を、北村は後妻にもらっている。
  2. 桂歌丸「極上歌丸ばなし」より
  3. ただし、馬生門下の真打の古今亭志ん駒は新団体に参加しており、師匠と袂を分かった形となっている。だが実際のところ、これは弟志ん朝を心配する馬生が、志ん駒の人柄を見込んで頼み、志ん朝の元へと送り込んだものであったという。後に志ん駒は馬生から形式的にではあるが破門され、正式に志ん朝門下となって志ん朝一門を支えてゆくこととなる。
  4. もっとも、これには温情以外にも、騒動を引き起こした黒幕と言われながらも協会残留を決め込んだ談志に対する、協会幹部の牽制や思惑も含まれていたとされる。
  5. 落語界では50代後半から芸がさらに伸びるという言葉も存在する様に、落語家の還暦前後での死は早死の域として扱われることが多い。
  6. この騒動のため、現在でも圓生は空き名跡のままである。
  7. なお、志村けんは、この頃加藤茶宅住み込みの付き人であったという(志村の項参照)。

参考となる書籍[編集]

関連項目[編集]