田中六助

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田中 六助たなか ろくすけ1923年1月23日 - 1985年1月31日)は昭和時代政治家、元衆議院議員(8期)。正三位勲一等旭日大綬章

来歴・人物[編集]

大正12年(1923年1月23日福岡県田川郡上野村(現:福智町)に布団屋の三男として生まれる。生まれたときは、七ヶ月の未熟児で、何とか丈夫に育って欲しいという両親の願いから、英彦山神社の近くに住み、豊臣秀吉の前で相撲の35人抜きをしたと伝えられる豪傑「毛谷村六助(けやむら・ろくすけ)」の名にあやかって命名された。

田中の郷里、田川は五木寛之の「青春の門」で描写されたように、筑豊炭田で有名な炭鉱町で、ここを流れる遠賀川沿いに住む人を「川筋者(かわすじもの)」といい、侠客めいた気性で知られるが、田中自身も典型的な川筋者として育った。

さらに、そのような侠客じみた気性と行動力に加え、マックス・ウェーバーに傾倒し、ウェーバー研究に熱心で、「職業としての政治」を実践しようと念頭に置く一面もあった。

地元の田川中学(現・福岡県立田川高等学校)から、興亜専門学校(現在の亜細亜大学)に進み、卒業後、海軍飛行予備学生(第13期)となり、三重県鈴鹿海軍航空隊で特攻隊の教官をする。自身も特攻の予定であったが搭乗する機体の整備を待っていたところ、終戦となり九死に一生を得る。戦後、政治家を目指し、早稲田大学政経学部新聞学科に入学。同大学を卒業後、昭和24年(1949年日本経済新聞社に入社した。政治部記者時代に、池田勇人番となり、池田に愛される。昭和35年(1960年)に日経を退社し 同年11月の衆議院総選挙に打って出るが落選した。

昭和38年(1963年)11月の第30回衆議院議員総選挙自由民主党から出馬する際には前回定数4で8人立候補中7番目という惨敗だったため公認で一悶着起こり、池田が大野伴睦が押す中川一郎を立候補させることを支持する引き換えに公認を得た。結果は定数4で8人立候補中3位で初当選を飾る。当選後は、池田派・宏池会に所属し、大平正芳の側近として活躍する。田中の名前が自民党内外で知れ渡ったのは、昭和45年(1970年)のいわゆる「大平クーデター」によってである。

自民党総裁三選を果たした佐藤栄作首相は、池田の後継者・前尾繁三郎に約束した内閣改造を反古にし(背景には佐藤のライバル・三木武夫が111票を取ったことへの不満があった)、前尾に飽き足りぬ田中が口火を切る形で宏池会会長を前尾から大平に交代させた。大平側近として大平政権樹立に奔走し、昭和53年(1978年)第一次大平内閣が誕生するや、内閣官房長官として入閣する。内閣のスポークスマンとして大平の「口舌」役をつとめ「おしゃべり六さん」の異名を取るが、一方で三木元首相や福田元首相を「頭の呆けた連中」などと放言するなど、失言、舌禍も多く「大平内閣のアキレス腱」と見る向きもあった(三木に対しては、「あの世から亡くなった政治家(椎名悦三郎副総裁のこと)が“おいでおいで”しているよ」と発言して、怒りを買っている)。

昭和54年(1979年)11月第二次大平内閣が成立すると、内閣官房長官を伊東正義と交代し自民党筆頭副幹事長となる。昭和55年(1980年)3月、ロッキード裁判の過程で、浜田幸一のラスベガス賭博事件が明るみに出ると、田中は「川筋者」の本領を発揮し、浜田と膝詰談判の末、引導を渡し、「首切り六さん」「落としの六さん」の異名を奉られた。

昭和54年02月14日衆-予算委員会(ダグラス・グラマン事件)で「海部メモ」で知られる日商岩井副社長海部八郎との関係を問質され、疑惑の政治家となる。

昭和55年5月16日社会党から提出された大平内閣不信任決議案は、反主流派の福田派と三木派が本会議場に欠席したため、成立し、大平首相は、衆議院を解散、史上初の衆参同日選挙に突入する。しかし、党内抗争によって疲弊しきった大平は心筋梗塞で倒れ、快方に向かうかに見られた矢先、6月12日に容態が急変し、不帰の客となった。

田中は領袖の死を悲しむ一方で、冷静に事態の収拾に動き、渋る伊東正義内閣官房長官内閣総理大臣臨時代理に就任させ、大平の選挙区には、首相秘書官で女婿の森田一を出馬させた。大平の死によって、自民党は圧勝するが、その興奮のさめやらない中で、ポスト大平の後継総裁に宏池会代表(会長の名称は、伊東の意見により大平に弔意を表すため控えた)に就任した鈴木善幸を担ぎ出す。田中は、岸信介に根回しをし、岸を通じて福田を説得、田中角栄も了解し、一挙に鈴木内閣成立の立役者となった。

7月9日に最高顧問会議が開催されたが、総裁選出は事実上、終了していたため、前尾繁三郎をして「幕が開く前に、芝居が終わっていた。」と言わしめた。鈴木内閣実現の功労により、通商産業大臣に就任する。

しかし、鈴木は内閣官房長官に宮沢喜一を起用し、田中との間に「一六戦争」が勃発する。昭和56年(1981年)鈴木改造内閣で自民党政務調査会長として党三役の一翼を占める。鈴木と宮沢が縁戚関係を結んだことから、田中は、次第に鈴木後の首相最有力候補である中曽根康弘に接近していった。同年に著書「大平正芳の人と政治」正続2冊を朝日ソノラマで刊行している。

昭和57年(1982年)11月、中曽根内閣が成立すると、政調会長に留任する。宮沢との一六戦争も加熱し、宮沢が派閥横断的な議員グループ「平河会」を主催すれば、それに対抗して田中も「新世代研究会」を結成してことごとく張り合った。しかしこのころから、三十代から患い始めていた糖尿病が悪化する。政調会長として衆議院本会議で代表質問に立った際、白内障のため新聞の見出しほどの大きさに印刷した分厚い原稿を読めず、立ち往生し、それがテレビ中継され入院を余儀なくされる。

しかし、病床に倒れても抜群の行動力を誇り、ロッキード裁判渦中の田中元首相と隠密裏に会見したり、ロッキード判決選挙で自民党が解散前の286議席から250議席に激減すると、新自由クラブを取り込み、連立政権を作り政権維持に成功した。選挙後、中曽根首相は「いわゆる田中(角栄)氏の影響を排除する」総裁声明を発表し、二階堂進幹事長は交代を余儀なくされ、後任の幹事長には宮澤喜一と田中の名が取りざたされたが、最終的に田中が就任する。宮沢は「これほどの屈辱を味わったことがない」と思わず独白したという(田中幹事長人事が鈴木派の怒りを買い、翌年の二階堂擁立劇につながった)。

幹事長就任後、病状が悪化し、8月28日東京女子医大病院に入院。この頃表面化した二階堂副総裁擁立構想について、金丸信総務会長宛に長さ3,5メートルもの書簡を送り、中曽根に失政がなく、党内抗争が国民世論の反発を買うことを批判する内容を列挙し、中曽根再選を後押しした。昭和60年(1985年)1月31日、糖尿病の悪化に伴う心筋梗塞で死去、享年62。同時期に『保守本流の直言』が中央公論社より遺著として刊行された。

親族[編集]

関連項目[編集]


官職
先代:
日本の旗 日本 通商産業大臣
第41代:1980年 - 1981年
次代:
先代:
日本の旗 日本 内閣官房長官
第42代:1978年 - 1979年
次代:
党職
先代:
自由民主党幹事長
第21代 : 1983年 - 1984年
次代:
先代:
自由民主党政務調査会長
第30代 : 1981年 - 1983年
次代: