徳川宗春

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徳川宗春
時代 江戸時代中期
生誕 元禄9年10月26日1696年11月20日
死没 明和元年10月8日1764年11月1日
改名 松平萬五郎、通春、徳川宗春
別名 求馬
神号
諡号 逞公
戒名 章善院厚譽孚式源逞
霊名
墓所 徳興山建中寺平和公園
官位 従五位下主計頭従四位下侍従
右近衛権少将従三位右近衛権中将
参議権中納言、贈従二位権大納言
幕府
主君
陸奥国梁川藩主→尾張国尾張藩
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川綱誠、母:梅津(宣揚院
養父:徳川継友
兄弟
正室:なし
側室:梅津、民部、伊予
勝子(近衛内前室)

德川 宗春(とくがわ むねはる)は江戸時代大名である。当初は尾張藩の支藩である陸奥梁川藩第4代藩主を継いだが、後に尾張藩第7代藩主となる。

生涯[編集]

元禄9年10月26日1696年11月20日)日、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠の十九男として名古屋城で生まれる。母は側室の梅津(宣揚院)。

宝永5年(1708年)、兄で第4代藩主の徳川吉通より偏諱を受け通春(みちはる)と名乗る。正徳3年(1713年)には江戸へ移り元服を行い、第7代将軍・徳川家継に拝謁して譜代衆となる。家継死後の正徳6年(1716年)、紀州徳川家徳川吉宗が第8代将軍に就任し、享保14年(1729年)には吉宗から梁川藩3万石を与えられる。享保15年(1730年)、兄の継友が死去したため梁川の領地を返上して尾張徳川家を相続する。翌16年(1731年)に名古屋城へ入る。名古屋入府の際の宗春一行は華麗な衣装に身を包み、宗春自身は鼈甲製の唐人笠を被り金糸で飾られた虎の陣羽織姿で馬上にあった。この異様な風体は名古屋の人々の度肝を抜いたという。

宗春は藩主に就任すると、自身の著書『温知政要』を藩士に配布。その中で宗春は「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」、「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げ、質素倹約を基本方針とする吉宗が推進する享保の改革に反対し名古屋城下に芝居小屋遊郭を誘致するなど開放政策を採る。これらの政策には徳川御三家筆頭でありながら、兄・継友が将軍位を紀州家の吉宗に奪われた事や享保の改革による緊縮政策が経済の停滞を生んでいた事への反発があると言われている。

この結果、倹約令で火が消えたようだった名古屋の街は活況を呈するようになる。その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」と言われるほどであった。さらに彼の治世の間、尾張藩ではひとりの処刑者も出さないという当時としては斬新な政策も打ち出している。

宗春の生活ぶりは国元はもとより江戸においても変わらず、享保17年(1732年)には参勤交代で江戸へ下った際に吉宗から使者を介して詰問されている。その内容は、

  • 国元ならともかく江戸においても遊興にふけっている
  • 嫡子の初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ尾張家が家康から拝領した幟まで飾った
  • 倹約令を守っていない

という物だった。これに対し宗春も一応上意として受けるも、

  • 他の大名のように国元で遊興にふけり、江戸では倹約するという表裏ある行動は取れない。第一、領民に迷惑をかけていない
  • 初節句の時、江戸藩邸に町人たちを呼び入れ家康から拝領した幟まで飾ったのがけしからぬと言うが、そのような禁令はいつ出たのか
  • お上は倹約令を守っていないと言うが私なりに倹約に努めているつもりだ。ただお上は倹約の根本をご存じないので、お分かりにならないのだろう

と一歩も引かず反論した。すなわち厳しい倹約令の中、あえて禁令に触れていないものを飾って派手な催しを演じ庶民の喝采を浴びたのである。また、宗春は領主があえて浪費することによって経済の活性化を図ろうとしたのだった。

しかし宗春の思惑とは異なり、尾張藩士民は緩み財政も赤字に転じた。また、将軍家との対立は藩重臣層の不安をあおった。元文元年(1736年)には3ヶ所の遊里を1ヶ所に、芝居小屋も新規は取り払うべしの命を出し規制緩和政策の後退となった。元文2年(1737年)、財政悪化により農民、商人に上納金の割り当てを命じ民衆の人気を失ってしまった。

これを見た竹腰正武ら国元の藩重臣は宗春失脚を画策。将軍吉宗と謀反を計略し元文3年6月9日1738年7月25日)、宗春が(3月に)参勤で江戸に向かったのを見計らってクーデターを起こした。宗春から実権を奪い、宗春の藩主時代の命令をすべて無効とし藩主就任前の状態に戻すとの宣言を発した。そしてついに元文4年1月12日1739年2月19日)、宗春は吉宗から隠居謹慎を命じられ広島藩主・浅野吉長らにより伝えられる。宗春は名古屋城三の丸に幽閉され、後継は美濃国高須藩主の松平義淳(徳川宗勝)となる。宗春への処分は厳しいもので外出は一切認められず、閉門したままであり父母の墓参りも許されぬというものだった。後継の宗勝も宗春の「養子」ではなく尾張藩はいったん幕府に召し上げ、改めて宗勝に下されるという扱いであった。

宝暦元年(1751年)に吉宗が死去し、宝暦4年(1754年)には下屋敷へ移る。

明和元年10月8日1764年11月1日)、死去。享年??。諡号は逞公、法名は章善院。宗春の処分は死後も続き、墓石金網が掛けられた。没後75年の天保10年(1839年)に第11代将軍・徳川家斉の子の徳川斉荘が第12代尾張藩主に就任する際に名誉回復が行われ、金網も撤去された。従二位権大納言を贈られ、歴代藩主に列せられる。

宗春の政策によって名古屋が大都市に発展する礎が築かれた事は確かであるとする肯定的な評価が存在する一方、長期的見通しを欠いた単なる放漫財政であるとするものまで宗春への評価は未だに揺れ動いている。しか、将軍吉宗の倹約八木経済政策(社会主義)に自由経済政策理論の正論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけである。

官歴[編集]

墓所と遺骸[編集]

明和元年(1764年)に宗春が死ぬと、建中寺に葬られた。墓には長い間、金網がかけられていた。明治期の発掘調査では土葬にされており、遺骸はミイラ化していた。経帷子守り刀木刀も残っていた。木刀が守り刀にされたのは金網同様に、尾張藩の幕府への遠慮と怖れが影響していると思われる。昭和20年(1945年)に名古屋市空襲を受けると、宗春の墓石が焼夷弾の直撃を受け一部が損傷した。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い市内の墓が千種区平和公園に移されることになり、宗春の墓も移された。このときには遺骸は荼毘に付された。なお、副葬品などは建中寺に収められている。

家系[編集]

ほか

史料[編集]

  • 『尾張徳川家系譜』
  • 『夢之跡』
  • 『徳川宗春年譜』
  • 『温故知要』 - 宗春自身が自らの政策をまとめた書物だが、宗春の考えが一般庶民に浸透することを恐れた吉宗により発行が禁止される事態も起きた。

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

演じた俳優[編集]

先代:
松平義真
尾張徳川家連枝梁川藩
1729 - 1730
次代:
-
先代:
徳川継友
尾張徳川家尾張藩
第7代:1730 - 1739
次代:
徳川宗勝
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