周恩来

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周 恩来(しゅう おんらい、ズオウエンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中国政治家。中華人民共和国の初代総理を務めた。

経歴[編集]

1898年3月5日に江蘇省淮安に生まれる。比較的豊かな都市知識人の家庭に生まれた。1913年、天津の南開中学に進学。 1917年から1919年にかけて、日本に留学する。神田の東亜高等予備校で日本語、受験科目の補修を受けるが、東京高等師範学校一高の受験に失敗する。官費留学生の道が閉ざされた。留学中にロシア革命を知り、また『新青年』を読み、祖国の現状を強く憂えた。 東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学する[1]。母校の南開学校が大学部を創設すると聞き、帰国を決意する。南開大学に入り,五・四運動に参加し、逮捕投獄された。出獄後、進歩的学生団体「覚悟社」の主要メンバーとなる。 1920年勤労学生としてフランスに渡り,李立三らとともに中国共産党パリ支部を創立し,1922年入党。1924年帰国し,党の広東省委員会書記となり,黄埔軍官学校政治部主任代理を兼任。1926年中山艦事件で逮捕。 1928年モスクワで開かれた六全大会に出席し、1931年江西ソビエト区に入り政治局主席団の一人に選ばれ、軍事部長を兼任。 1935年1月:遵義会議で毛沢東路線を強く支持。党における毛沢東の指導的地位の確立に重要な役割を果たす。同会議後、中央革命軍事委員会副主席、中央3人軍事指揮小組メンバーを兼任。 1947年8月:中央軍事委員会副主席および中央軍事委員会参謀総長代理を兼任。 1948年9月:ほかの指導者と共に遼沈、平津、淮海の3大戦を指揮。同11月、中央軍事委員会副主席兼参謀総長に任命。 1949年10月1日、共産党は中華人民共和国を建国した。政務院総理・国務院総理(首相)となる。1976年に死去するまで27年間この地位にあった。また、1958年まで外交部長(外務大臣)を兼任し、外交政策を主管した。 1969年の九全大会では中央委員、中央政治局委員、中央政治局常務委員会委員に選出され、73年の十全大会でも再選され、副主席の筆頭に選ばれた。

1950年の中ソ友好同盟相互援助条約,1954年ジュネーブ会議中国代表団主席,1955年バンドンにおける第1回アジア=アフリカ会議,1956~57年ハンガリーをはじめとする 11ヵ国歴訪など,中国外交の中心をになった。

1971年の国連復帰,中米接近,1972年アメリカの R.ニクソン大統領の訪中と米中共同声明 (上海コミュニケ ) 発表,日中国交正常化を進めた。 1975年には国防・農業・工業・科学技術の四分野の革新を目指す「四つの現代化」を提唱した。1972年に膀胱癌が発見され、1974年6月1日、北京の解放軍第305病院に入院する。1976年1月8日、周恩来死去。民衆は周恩来を追悼する行動を起こし、当局は鎮圧し第一次天安門事件が起こる。

人物[編集]

  • 遵義会議(1935年1月15日から17日までの3日間、貴州省遵義県(現遵義市)で開催された中国共産党中央政治局拡大会議)で共産党の路線をめぐる親ソ派と毛沢東派の対立で周恩来は自己批判して誤りを認め、毛沢東を支持した。毛沢東は軍事担当の政治局常任委員として復活した。毛沢東が絶対的な権力を握った後も周恩来は生涯、“献身的に仕えた”。
  • 中国で周恩来は常に人民のことを思う、人徳のある宰相と考えられている。
  • 1965年からの文化大革命では行き過ぎを抑える役割を演じ、推進派の林彪四人組から批判を受けていた。
  • 妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。

参考文献[編集]

  1. 王敏(編著)『周恩来たちの日本留学』三和書籍,ISBN:978-4-86251-187-4 ,2015