光クラブ事件

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光クラブの広告

光クラブ事件(ひかりクラブじけん)とは、1948年東京大学の学生による闇金融起業が法律違反によって警察に検挙された事件。「アプレゲール犯罪」の1つとされる。

概説[編集]

1948年昭和23年)9月東大生の山崎晃嗣(やまざきあきつぐ)は、友人の日本医科大生三木仙也とともに貸金業「光クラブ」を東京中野の鍋屋横丁に設立。社長は山崎、専務は三木、常務は東大生、監査は中大生であった。周囲の目を引く画期的な広告を打ち、多額の資金を調達することに成功。集めた資金を商店、企業などに高利で貸し付けた。学生、それも東大生が中心となって経営を行っているということが業界で注目され開業4ヶ月後の1949年(昭和24年)1月には、資本金400万円、社員30人を擁する会社にまで発展する。

しかし、同年7月4日に山崎が物価統制令違反で逮捕(後に不起訴)されると同時に出資者の信用を失い、業績が急激に悪化。その後、名称のみ変更してさらに資金を集めようと図るも成功せず、11月24日深夜、約3000万円の債務を履行できなくなった山崎は、本社の一室で青酸カリをあおり、下記の遺書を残して服毒自殺した。

  1. 御注意、検視前に死體(体)に手をふれぬこと。法の規定するところなれば、京橋警察署にただちに通知し、検視後、法に基き解剖すべし。死因は毒物。青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡したる者が本當(当)のことをいったかどうかは確かめられし)。死體はモルモットと共に焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に賣(売)却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)
  2. 望みつつ心安けし散るもみじ理知の命のしるしありけり。
  3. 出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡あり。お疑いあればアブハチとらずの無謀かな。高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわればナル……氷カシ(貸─自殺して仮死にあらざる証依而如件 よってくだんのごとし)。
  4. 貸借法すべて清算カリ自殺。晃嗣。午後一一時四八分五五秒呑む、午後一一時四九分……

山崎晃嗣の辞世の句
光クラブ社長室(中央の写真の人物が山崎晃嗣)

首謀者・山崎晃嗣[編集]

山崎は、医師・木更津市市長だった山崎直の五男。1923年10月、木更津市に生まれる。旧制木更津中(現・千葉県立木更津高等学校)から一高を経て1942年に東京帝国大学法学部に入学するが、学徒出陣により陸軍主計少尉に任官。北海道旭川市の北部第178部隊の糧秣委員として終戦を迎える。戦時中、上司の私的制裁により同級生を亡くすが、上官の命令により秘密にさせられた。

終戦の際に、上官の命令で食糧隠匿に関与するが、密告によって横領罪で逮捕。上官を庇って懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受けるが、尋問時に警察から虐待された上、事前に約束された分け前に与ることが出来ず、同級生の死と共にこの事件の深い失望や虚無感が後々の山崎の人生や「人間はもともと邪悪」と記された彼の遺書に影響する。

東大復学後は全ての科目で優を取ろうと猛勉強し、勉強や睡眠・果てはセックスに至るまで、細かく分刻みにスケジュールを記録していった。結局、全ての科目で優を取るという当初の目標は達成されなかったものの、偏執狂的とも言えるスケジュールをつける習慣は、死の直前まで続いていた。

対人関係
大学構内ではほとんど人と接しようとはせず、ある知人は同じような振る舞いをしていた平岡公威(後の三島由紀夫)と共に印象に残った、と証言している。彼が心を許した友人はごく少数で、そのうちの一人に上記の同級生の死の真実を告白している(この事実は保坂正康の評伝により公にされた)。
また、女性関係も奔放で愛人が6人いたものの、恋愛とかプラトニック・ラブとかいう感情とは全く無縁で、「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と愛人の1人に告白している。結局、税務署官の恋人だった秘書の内通により、山崎は検挙されることとなる。
実業家藤田田は、東大で山崎の一級下でありクラブへの出資者でもあった。自殺直前の山崎から資金繰りに行き詰まったことを相談された藤田は「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」と言った。
その他
山崎の死後、彼が残した手記が『私は天才であり超人である 光クラブ社長山崎晃嗣の手記』(1949年)、『私は偽悪者』(1950年)の名前で刊行された。このうち、『私は偽悪者』は牧野出版から復刻されている(ISBN 978-4895000901)。
2007年10月26日、東京・神田神保町神田古書店街で開かれた古本まつりに、光クラブ設立前夜の金融業を始める以前の1946年3月から1947年12月までの1年半余にわたる日記が出品された。
生家は現在、木更津市が管理する山崎公園となっている。

論評[編集]

東京・新宿駅から地下鉄丸ノ内線で約5分。新中野駅で降りて階段を上がると、商店街「鍋屋横丁」に出る。

終戦から3年後の1948(昭和23)年10月、東大法学部の学生山崎晃嗣(あきつぐ)はこの地にヤミ金融「光クラブ」の看板をかかげた。三島由紀夫の小説「青の時代」(50年)のモデルになった人物である。

かつてバラック小屋が並んでいた青梅街道沿いの横丁には、自転車の主婦がさかんに行き交う。生きていれば89歳になる山崎と年齢が近い古老は、「光クラブは人の出入りが激しく、相当もうけたようだった」と振り返った。

山崎は千葉県に生まれ、旧制一高から東京帝国大学に入学、学徒出陣で軍隊生活を送った後、復学した。その遺稿をまとめた「私は偽悪者」によると、「月2割配当」という出資話で10万円をだまし取られたことから、「自分の能力ならもっとスマートにできる」と「光クラブ」を設立した。1カ月据え置きで利子が月1割2分という高配当で資金を集め、10日で1割、いわゆる「トイチ」の高利で貸し付けたのだった。

新聞広告で客を呼び込み、翌年1月には「わが“人生劇場”の舞台」に東京・銀座を選び、事務所を構えた。出資者は400人、学生社員や暴力団を使い、貸付金を商工業者らから取りたてた。月商は5千万円に上ったという。

ところが7月、物価統制令銀行法の違反容疑で逮捕される。処分保留で釈放されたが、資金繰りに行き詰まり、11月24日青酸カリを服用、翌25日に死亡が確認された。27歳だった。

遺書には「契約は……死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。……債権者に、死んでお詫(わ)びする……のではない」と記した。戦前の価値観がことごとく否定された時代。東大生が学業そっちのけでヤミ金融を営んでいたことは大きな反響をもたらし、退廃的な風潮や人々を指す「アプレゲール」(戦後派)という流行語を広めた。

山崎の行動は放逸、退廃といった言葉でくくれるのか。半世紀後、ノンフィクション作家保阪正康は「真説 光クラブ事件」で、新たな山崎像を描いた。

山崎が出征中、一高から東京帝大まで同級生だった友人が教官から水風呂に飛び込むように命じられ、心臓まひで死んだ。だが、部隊や遺族には訓練中に倒れたと説明された。「山崎は、虫けらのように扱ったと怒気を含んで語った」と、保阪さんは旧制一高の同級生から聞いた。

終戦直後には、上官に命じられて兵士用の食糧を隠し、検挙されたが、上官の名は明かさなかった。上官らは食糧を持って帰郷していた。保阪は「山崎の人生には、戦争での無念さや怒りがつまっている」と語る。

三島は山崎と同時期に東大法学部に在籍した。二人は知り合いだったのだろうか。

白百合女子大井上隆史教授(日本近代文学)によれば、「青の時代」の創作ノートを見る限り接点は確認できない。一方で、「大教室の後ろの方でよく話していた」と語った同級生もいる。

井上教授は「特攻隊世代の若者にとって、死は決まっていることだった。山崎も三島もニヒリズムという時代の空気を共有していた。ニヒリズムが高度経済成長期の日本では理解されなくなったことが三島の自決の一因」という。

「バブル経済の崩壊や原発事故で、戦後の豊かさは砂上の楼閣だったことが明らかになった。人々は何を目標に生きるのか分からなくなり、山崎や三島が陥ったニヒリズムが再び広がっているのではないか」と語る。

三島由紀夫、21年後の同じ日に自決[編集]

山崎晃嗣の千葉県木更津市の実家は、市内を流れる矢那川沿いにあった。三島由紀夫は「青の時代」で、「この家の唯一の面白味は、川に突き出したヴェランダで居ながらにして出来る鯊釣(はぜつり)であった」と記す。

市長を務めた山崎の父は医者でもあり、ベランダは病室の窓についていたものだった。その家は残っていないが、山崎の親族は土地を市に寄付。現在は「山崎公園」としてあずまやなどが整備されている。

三島が出世作「仮面の告白」の起筆予定日として編集者に伝えた日付は1948年11月25日だったが、翌49年の同じ日に山崎の死亡が確認され、その21年後の1970年11月25日に三島は自決した。井上教授は「この日付の符合は因縁めいている」と語る。

山崎晃嗣と幼なじみの元木更津市長・石川昌さん[編集]

合理的に「優」を狙う秀才

山崎晃嗣は同じ幼稚園と小学校に通った幼なじみ。互いの家を行き来して遊んだ。彼は地元の旧制木更津中学に進学し、僕は東京の旧制府立四中に進んだ。

終戦後入った東大法学部で、山崎と再会した。試験で、山崎は黒板に書き出された問題を見て、自信がないと教室を出ていった。合理的に物事を考えて、もっぱら「優」を狙っていたんだろう。

私の兄は、東大法学部を卒業後、大学に残り研究生活を送っていた。兄のところに大学生の山崎が相談にきたことがあった。居合わせた私は、「金貸しなどやるんじゃない」と兄が彼を叱ったのを覚えている。

そのとき、私は「せっかくだから、食事をしていけよ」と言った。山崎は「メシを食べている暇はない」と帰っていった。終戦直後の食糧難の時代で、喜ぶだろうと思って言ったのだが、光クラブを始めていた山崎はメシも食べずに飛び出すほど忙しく、夢中になっていたのだろう。

山崎は「父に叱られた」と言っていたことがあった。医者だった彼の父は、優秀な山崎に期待をかけ、自分と同じ道を進んでほしかったのじゃないかな、と思う。

大学卒業後、勤めていた製糸会社への通勤中に山崎の自殺を新聞で知った。驚いた。せっかくの命を生かさず残念だと思った。

光クラブをモデルにした作品[編集]

小説[編集]

手形パクリ屋の芳賀龍生がモデルとなっているが、三木をモデルとした人物も登場する。

ドラマ[編集]

主演 渡瀬恒彦 鶴岡七郎 役、山崎をモデルとした隅田光一役は山本圭が演じた。
  • 『蒼い光芒』(NHKで連続ドラマ化、1981年(全4回))
山崎役は根津甚八
山崎(役では江崎)役は佐藤浩市、三木(役では佐々木)役は段田安則が演じた。
山崎役は萩原聖人、三木役は加藤晴彦が演じた。
登場人物として、山崎をモデルにした「宮崎正志」という東大生が「太陽グループ」を作ったという描写がある。演者は岡田将生

備考[編集]

  • 光クラブの元社員たちの中には、三木仙也を始めその後同様の高利貸しを営む者が出た。
  • 東京大学出身のエリートが起業して知能犯罪を犯すという典型として、その後も光クラブ事件になぞらえる新聞・雑誌記事などが散見される。1988年リクルート事件では、清水一行がリクルート創業者の江副浩正について言及する際に山崎を引き合いに出している。また、2006年1月のライブドア事件でも、ライブドア社長であった堀江貴文が逮捕された際に同様の反応が出た。しかし、山崎の評伝を著した保阪正康は、人生観などから見て山崎と堀江は似て非なるものであると否定的な見解を示している。

参考資料[編集]

関連項目[編集]